Dimension Force

〜狐火の巫女〜

6

 山手線の車内に特徴的な渋辛声のアナウンスが入り、電車は軽快に走り始めました。
 何度目かの停車駅を出て、車内の案内は次の停車駅が私達の目的地、原宿である事を示しています。
「司様、次の停車駅で降りますえ」
 未だ小さな男の子をあやして居られる司様に声を掛けると、司様は男の子の秀でた額を指先で突きました。
「ほれ、我等は次で降りてしまうぞ。離してくれないと動けぬではないか」
 それを受けた男の子は「えー」と不満げな声を上げたのですが、その声に……どうやら今まで男の子が司様にくっついていた事に気付いていなかったのでしょう……男の子の母親とおぼしき女性が「スミマセン、ゴメンナサイ」と、早口に言いながら、男の子を抱え上げて走り去ってしまいました。
「……東京やと、こう言うたことはよう有らはりますのん?」
 親子が別の車両まで遠ざかるのを確認してから一青さんに伺うと、一青さんは苦笑しつつ「まさか」と、短くお答えくださいました。

 原宿駅を出て、僅か300メートル足らずの位置に在るのが、かの有名な明治神宮です。
 有名という事ならば、我が伏見稲荷大社も負けてはいないと思いますが、東京の神社と言えば、やはりこの明治神宮でしょう。
 参拝には後ほどゆっくり参るとして、私達は神宮の脇を抜け、一路神社本庁へと向かいました。

「此処が神社本庁です」
 一青さんがそう仰られたのは、明治神宮の敷地を通り抜けたかと思ってすぐの事でした。
 あまりの近さに、私は思わず「えっ?」と声を上げ、一青さんが掌で示される先を確認してしまいました。
 そして其処には和風だか洋風だか、一見しただけでは判断し辛いものの、確かに神社本庁と銘打たれた建物が鎮座していたのです。
「なんだこのか、素っ頓狂な声を上げおって」
「いえ、明治神宮の隣だとは聞いてましたのやけど、こんなに近いとは思わなかったもので」
 私が照れ隠しに笑うと、一青さんも同じように笑いながら、神社本庁の立地についての解説を挟んで下さいました。
「神社本庁は元々明治神宮の敷地を一部借り受ける形で建立されましたから。隣と言うよりは、明治神宮の一角にあると言った方がイメージに合うかも知れませんね」
「なるほどです」
 一青さんに頷いて見せて、再び神社本庁へと視線を戻した私は、その外観をまじまじと眺めてみました。
「何だか、かわいらしい建物ですね♪」
「何処がだ?」「そ、そうですか?」
 同意は得られませんでした。

 神社本庁の正面入口には、何やら人だかりが出来ておりました。
 職員の方々でしょうか、背広姿の男性や、スーツを着こなした女性。はたまた、神社でお馴染みの白衣に水色の袴を着けた男性や、大胆に胸元の開いた着流しの女性など、統一感が有るんだか無いんだかな一団が、わいわいがやがやと盛り上がっております。
「あれは何でしょうか?」
 掌で庇を作り仰ぎ見るも、一体何をしているのかは窺い知る事は出来ませんでした。
「みんな待っているのですよ」
 一青さんは短くそう言うと、さあ行きましょうと大股で歩みを再開されましたので、司様と私は急いでその後を追い掛けました。
 そして、一青さんの言葉の意味は、間もなく判明致しました。

 私達が神社本庁前に姿を現せると、入口付近でたむろしていた(恐らく)神社庁関係者の方々は「お出でになったぞ」だとか、「あー、本当だ」とか。口々に歓声を上げながら、一気に駆け寄って来ました。
「ひえぇっ!?」
 取り囲まれました……

 結論から申しますと、この方々はやはり神社庁の方々であり、伏見大社からやって来た私達……と言うよりは、司様にお目にかかろうと集まっていたそうです。
 神道関係者にちやほやされ、司様はすっかり得意顔になっておりました。
「さて、我等は統理を待たせておるのでな。そろそろ良いか?」
 一通り愛嬌を振り撒くと、司様は余裕たっぷりなご様子でそう仰いました。
 統理を待たせているの部分にやけに力が入っていたのは、恐らく気のせいでは無いのでしょうね……
「行くぞ、このか」
「あ、はいっ!」
 既に誰が呼ばれたのか分からないような状態になりつつありますが、私達はいよいよ神社本庁統理の居室へと通される運びとなりました。

「うぅ……緊張します」
 一青さんに先導されながら廊下を歩くさなか、私はそんな事を漏らして居ました。
「高校の面接は大丈夫だったのだろう? 細かい事を一々気にするな」
「高校の面接も緊張でボロボロでした」
「…………」
 司様にはすっかり呆れられましたが、歩みそのものは止まってはおりません。
 折に一青さんが前方を示され、あそこが統理の居室だと仰られたので、私はそちらに目を向けました。
「……あら?」
 其処には、リクルートスーツに身を包んだ男性が、統理の居室前に据え置かれた椅子に腰掛けて居る姿がありました。
 そしてその男性は、私にとって非常に思い出深い方であったのです。

 

7

 私達が男性の姿に気付いたのと同時に、男性の方も私達の存在に気付かれたようで、自然と視線が交錯しました。
「原田殿、もういらしておいででしたか」
 最初に口を開いたのは一青さんでした。
 どうやらお知り合いらしく、一青さんは躊躇いなくその男性へと歩み寄って行かれました。
 一方、原田と呼ばれた男性は、少し戸惑った様子でこちら……話し掛けられた一青さんではなく、司様と私の方を見詰め続けています。
 神道に携わる者ならば、司様の事を知っていても不思議ではありません。
 初めは司様の姿に驚かれているのかと思ったのですが、その男性と目が合った瞬間、記憶の奥底に残っていた名前が私の口をついて出て来たのです。
「直弥さん……?」

「こ、このか……」
 私の呼びかけに、しどろもどろながらも呼び返して来たのは、何とも懐かしい声。
 もう間違えようがありませんでした。
 日本全国の神社・神宮の頂点に立つ、天照大神様を奉る伊勢神宮。
 その先代神主であり、現在は神社本庁統理の職に就かれている國井直邦様の親戚筋に当たるのが、彼。原田直弥さんです。
 私と同い年ということもあり、伊勢に伺った際は、良く一緒に遊んだものでした。
「直弥さん! お久しぶりですね。お元気にされて居ましたか?」
 最後にお会いしたのは、確か5年前だったでしょうか。
 その頃にはもう声変わりもされていたので、声の印象は変わりありませんでしたが、当時私より小さかった身長は、すっかり追い越されてしまって居ました。
 顔付きも引き締まり、今では幼さなど欠片も感じ取る事は出来ません。
「あ、ああ……変わり無い。そちらも元気そうだな」
 私があんまりジロジロ見るからか、直弥さんは照れ臭そうに視線を外しました。
 それでも、変わらずに柔らかそうな前髪を弄りながら、私の問い掛けにはちゃんと答えて下さいました。

「何だ、伊勢の砂利坊主か。暫く見ない内に随分伸びたな」
 司様も直弥さんの事を思い出されたようで、当時と同じように呼び掛けると、直弥さんは深々とお辞儀をして応えました。
「ご無沙汰しております司様」
「あれから伊勢に神霊と交われる者は現れたか?」
 直弥さんが頭を下げている所に、司様は早速質問を投げ掛けました。
 我等神道に携わる者の頂点に位置する伊勢神宮ですが、十年以上もの間、私達のように神霊と通じ合える人間が現れて居ないそうなのです。
 確かに、そのような人間はぽんぽん涌いて出るようなものでは無いのですが、霊験あらたかな伊勢神宮において、これほど迄に長い期間、交霊の出来る人間が現れないと言う事は由々しき事態と考える者も多いのだそうです。
 因みに当代の伏見稲荷大社では、私を含めて計四名の交霊術士が輩出されております。
 一人は伏見稲荷で神主を勤める私の父。一人は現在大阪の神社庁に勤める父方の叔母。一人は今年中学に上がる私の姪です。
 司様の問い掛けに対し、直弥さんは直ぐには答えず。やがてゆっくりと頭を振りました。
「ふむ、ではお前が当代最後の交霊士と言う事になるか……責任重大だな」
「司様、いきなりプレッシャーを掛けるんはやめてあげて下さいよ……ほら、直弥さんがカチコチになってはりますよ!」

 一先ず再会の喜びも分かち合ったところで、直弥さんを加えた私達四人(正確には三人と一柱)は、漸く神社本庁統理の居室へ臨む運びとなりました。
 表であれだけ騒いだのだから、統理ももう準備万端で待ち構えておいででしょうが、それでも一青さんは形式通り、扉をノックして、中へと招き入れられるその時を待ちました。
「どうぞ」
 分厚い扉越しだからでしょうか、低くしゃがれた声が更にくぐもったように響いて来るのがわかりました。
「失礼します」
 一青さんを先頭に、わたし、直弥さん、そして最後に司様が、統理の居室へと足を踏み入れました。

 大きな執務机のその奥で、やはり大きな椅子に腰掛けるのは、神社本庁統理、國井直邦様です。
 小柄で、頭髪も産毛程度のものだけになっているものの、腰は全く曲がってはおらず、齢八十を越えるとは思えない程の逞しさすら感じられるそのお姿に、私は思わず息を飲みました。
「伊勢神宮より、原田直弥殿。伏見稲荷大社より、伏見このか殿……そして、空狐天司様をお連れ致しました」
 一青さんに紹介され、先ず直弥さんが一歩踏み出し、はっきりとした調子で名乗りを上げました。
 次は当然私の番。
 慌てて舌を噛まないように一度呼吸を整えて、私は直弥さんと同じように一歩、前に踏み出しました。
「伏見稲荷大社より参りました。伏見このかと申します」

 

 

8

「伏見稲荷大社より参りました、伏見このかと申します」
 出来る限りはっきりきっぱりとした声で名乗りを上げ、私は深々と頭を垂れました。
 たっぷり時間を掛けて顔を上げ、そのまま司様の方へ片手を差し向け、いつもの口上で我が師を紹介します。
「こちらは空狐の司様でございます」
 そして、それに反応したのは司様の方では無く、神社本庁統理である國井直邦様の方でありました。
 國井様は執務机から立ち上がり、司様へ向けて机に額を擦り付けるかの如き深いお辞儀をされ、こう仰いました。
「お久しぶりです、司様。今一度お目もじかないました事、大変光栄に存じます」
 司様は神の直接の遣いに当たる存在であり、いかに神社本庁統理といえ、無礼を働くなど以っての外という相手。ですから、この対応はごく自然なものであると言えます。
「うむ、お主も壮健そうで何よりだ」
「いえいえ、御覧の通りの老いぼれでございます、もう身体じゅうあちこちが痛みましてな」
 そう冗談めかして言うと、國井様はガハハと豪快な声を上げて笑いました。
「相変わらずのようだ」
 対する司様も、くすりと小さな笑みを漏らせ、恐らく数十年振りの再会を喜び合っているご様子でした。
「そのような訳でして、御前で私だけ椅子に着くご無礼をお許し下さい」
 見た目では大変健康そうに映る國井様ですが、お年のこともあってか、立ちっぱなしではお辛いらしく、司様に断りを入れてから再び腰を降ろされました。
「さて、それでは改めて……原田直弥君、伏見このか君。神社庁へようこそ。私はこの神社本庁の統理を務めている、國井直邦です……と、それはもうご存知かな?」
 挨拶ついでに冗談を挟むあたり、國井様は中々にユーモラスな方のようです。
 そもそも、直弥さんとは血縁関係で有らせられるので、面識が全くないという事も無いはずです。
「知っての通り、我が神社庁は日本全国の神社を統轄、管理する役目を仰せ遣っております。そして各都道府県にある神社庁に、神霊と言葉を交わせる人材を派遣するのも、我が神社本庁の役割なのです」
 一般の方々はご存知無いことが多いと思いますが、神道に携わる者だからと言って、霊的な視力を持つ者ばかりかと言われると、実はそういう訳でもございません。
 神社の者は神のお住まいを守り、日々感謝を捧げる為のお使いに過ぎず、何か特別な能力は必要としないのです。
 現に我が伏見大社においても……実体を持つ司様はさておくとして……御先稲荷の方々と言葉を交わせる者は先述の四名だけでしたし、神霊と通じ合える人間が在籍していない神社というものも、決して少数ではございません。
 つまり、神社本庁の「各都道府県に交霊術師を派遣する」といった役割は、そのような神社へ交霊術師を割り当てることを意味しているのです。
 尤も、神のお住まいになられていらっしゃらない神社も沢山御座居ます。
 何処其処の分社で、アマテラスを奉っていますよっていう神社には、たいてい神様不在だったりします。
 明治神宮も実は神を奉っては居ないのですが、その事は意外にも知られては居ないようです。

 事務的な話はさておき、簡単な挨拶を済ませた後は、國井様から「これから頑張って下さい」というお言葉を頂いただけで話も終わり、私達は統理の執務室を後にしました。
 その後の手続きは、事務方の担当の方が済ませて下さったので、私達はただ待っているだけで用事が済んでしまいました。
「さて……それでは、明治神宮へと参りましょうか」
 神社庁への登録手続きを事務の方にお願いし、完全に手が空いたところで、一青さんが切り出しました。
 神社本庁に属する交霊術師は、特定都道府県の神社庁に派遣されている者を除くと、総て明治神宮の預かりとなっているそうなのです。
 私も直弥さんも、派遣先が決まるまでは明治神宮でお世話になります。
 尤も、國學院に通わせて頂いている間はずっと御厄介になると思いますが。

 流石に迷う程の距離ではありませんが、私達は一青さんの先導に随い、神社本庁を後にしました。
 目的地である明治神宮までは僅か200メートル足らず。
 桜の色めき始めた昼下がり、私達は一時の散歩と洒落込む事に致しました。

 

9

「春先のイチョウ通り言うんは、何の並木道なのかようわかりませんよね」
 明治神宮の見所の一つであるイチョウ並木で、ふとそんな事を思いました。
 そのまま口に出したところ、直弥さんはプッと息を噴き出して笑い、一青さんは恐らく愛想笑い。
 司様には無視されました。
「このか、明治神宮についてはどのくらい知っているのだ?」
 並木道を歩きながら司様に問われたので、私は記憶の引き出しから明治神宮に関する情報を探しました。

 明治神宮は明治天皇崩御の後、民間より明治天皇を祭神とした神社を設立してほしいという声が上がり、それを受けた大正政府の指示により建立された神社です。
 境内が置かれているのは、明治天皇が歌に詠まれた代々木の地。
 あと、初詣の参拝客数日本一。

「何か最後が安っぽいな……」
  すかさず「途中迄は良い感じだったのに」といった様子の直弥さんの文句が飛んで来ました。
「いやいや、よくご存知ではありませんか。自分は神宮の由緒などを聞かれても答えられる自信がありませんよ」
 助け舟を出して下さったのは一青さんです。
 一青さんも明治神宮のご厄介になられて居るはずですので、冗談で言って居られるのかとも思ったのですが、お腰の物を叩き「自分にはこれしか取り柄がありませんからね」とお笑いになる姿に、何故か納得してしまいました。
 そういえば鞍馬寺からいらしたそうですし、神社事情には精通しておられないのかも知れませんね。

「ところで一青さん、そのお腰の物は真剣なのですか?」
 無躾かとは思いましたが、ふと気になったので、思い切って尋ねてみました。
「ええ、真剣ですよ。神社庁に刀剣を納めてくれる刀匠がおりましてね、自分の刀も彼が打った物です」
「へぇ……真剣って持ち歩いて大丈夫やったんですか?」
「え?」
 場に流れる奇妙な沈黙……私、何か変な事言いましたか?
「この男は神社庁の特別対応班だぞ? 第一、このかもちゃんと武器を持って居るであろう」
 飽きれ顔で仰ったのは、勿論司様です。
 私も配属される事が決まっている特別対応班とは、交霊術師の中でも特殊な仕事を請け負う者たちを指します。その際、身を護る為に最低限の武装を必要としているのです。
 私は袖の中にある僅かな重みを確かめました。
「あ、でも八乙女は銃刀法違反にはなりまへんえ?」
 そもそも神宮の境内では、危険物の持ち込みは禁止されているはずです。ついでに動物の持ち込みも……
「いちいち口答えをするな」
「……はい」
 私はしょげました。

 拝殿で手を合わせた後、私達は一青さんに導かれるまま社務所へと足を向けました。
 明治神宮の社務所には、神社本庁所属の交霊術師が身を寄せるための屋敷が併設されており、私達は其処にご厄介になります。
「そういえばご挨拶の品を何も持って来てませんでした! どないしましょう?」
 通常引っ越しをした際には、近隣の方々にはご挨拶の品をお持ちするのが慣わしと聞いております。
 私は引っ越しの経験がありませんが、同じ屋根の下に暮らす事になる皆様に引っ越し蕎麦の一つでも用意してくるべきだったと、今更ながらに気付き後悔しました。
 直弥さんと一青さんは意外そうな顔をして。
「いや、その発想はなかったな」
「引っ越し蕎麦を持参した方は、自分の知る限りでは居ませんね」
 と口々に仰り、遠回しに持って来なくて大丈夫と言って下さっているようでした。
 しかし司様は相変わらずのご様子で、眉一つ動かさずにこう仰いました。
「八ツ橋でも配っておけばよかろう」
「あ、なるほど」

 神宮の屋敷は純和風の大層立派な造りで、大家族が引っ越してきても全く困らないであろう面積をもつ、平屋の一戸建てでした。
 木製の枠に曇り硝子がはめ込まれた玄関の引き戸をガラガラと開き、ただ今戻りましたと一青さんが声をかけると、屋敷の奥から白衣に水色の袴を履いた初老の男性が現れました。
「お帰りなさい、百鬼くん。そちらが今年の新人さんかい?」
 男性の出で立ちから察するに、恐らくこの方が明治神宮の宮司さまなのでしょう。
「ええ、伊勢神宮の原田直弥殿と、伏見稲荷大社の……」
「伏見このかと申します」
 一青さんが肯定するや、私は張り切って、本日三度目の名乗りをあげました。
 勿論、司様の紹介も。

 

10

 目を開くと、其処には見馴れない天井。
 微妙に押し入れ臭い掛け布団を剥ぎ取り、上体を起こすと、私の太股の横辺りで丸まっていらした司様の耳だけがこちらへ向きました。
「あ、司様。おはようございます」
「うむ」
 声だけの短い返事をいただくと、まだ動く気の無いらしい司様の邪魔にならぬよう、私はそっと布団から這い出しました。
 寝ぼけ眼の私は、まだ覚醒し切っていない頭をシャッキリさせるため、部屋の障子を開いて廊下へと出ました。
 司様はまだ暫くお休みになられるのでしょうから、布団はそのままです。

 春の朝は空気が温まりきってはおらず、薄着であたるには少々肌寒くも感じます。ですが、この寝ぼけた頭には丁度良い気付けになったようです。
 屋敷の縁側を歩く内に、私はだんだんと昨日の出来事を思い出して来ました。
 まず、此処は東京の明治神宮。
 昨日、一青さんの案内でたどり着いた、私達の居候先です。
 玄関先で迎えて下さった宮司様に続き、その時屋敷に居合わせた特別対応班の方々が温かく迎え入れて下さいました。
 それから程なくして、私と直弥さんの歓迎会と称した酒宴が催されたのですが……当の私達はまだ未成年であるため、当人達を差し置いてお酒を酌み交わす先輩方に、なにか腑に落ちない物を感じたりも致しました。
 ともあれ、私達の東京生活初日は、大騒ぎの宴会で有耶無耶の内に幕を閉じたのでした。
「まあ、お寿司も沢山頂けたし。それはそれでええかな」
 昨晩の食卓に並んだ江戸前寿司を思い返し自分の頬が緩むのを感じた私は、いけないいけないと慌てて表情筋を引き締めました。
 廊下の突き当たりにある洗面所に辿り着いたのは、丁度そんな折でした。

 洗面所には既に先客がおられました。
 すらりとした長身に、腰まで伸びた豊かな黒髪を持つその方は、私達の先輩に当たる陰陽師の阿傍閻(クマバタ チマタ)さまです。
「おはようございます、阿傍さま」
 私の挨拶から一拍ほどの間をおいて、阿傍様はゆっくりとこちらへ向き直ると、半開きの眼で私の顔をじっと見つめました。
 僅かな間ですが、無言で凝視され、居心地の悪い思いをしていると、阿傍さまはふんふんと頷き、へらっと表情を崩されました。
「えっと、ゴメン。名前何だっけ?」
「伏見このかです。どうぞお見知りおきを」
 阿傍さまの浮かべた照れ隠しの笑顔は中々可愛らしく、私もつられて笑顔になりました。
「そうだったそうだった! このかちゃん。ごめんねぇ、あたし人の名前覚えるの苦手なんだ」
 そう言いながら、阿傍さまは丸めていた背中を伸ばしました。
 背が高いとは思っていましたが、目の前で見ると完全に視線が噛み合わない身長差です。恐らく私より10センチは高いのではないでしょうか。加えて、頭の左右から水牛のそれを連想させる角らしきものが、緩やかなカーブを描きながら天を突いていらっしゃいます。
 ですが身長も角も然る事ながら、同時に圧迫感を与えるもうひとつの存在が目の前に突き出され、私の視線はそちらへと釘付けになってしまいました。
「…………」
「うん?」
 私の視線に気付いた阿傍さまは、少し大袈裟に、冗談めかした仕草でご自分の胸を覆い隠し、そしてこう仰いました。
「やだこのかちゃん、朝から何処見てるのよ〜」
「えっ!? あ、す……すみません」
 仰る通り、私は阿傍さまのバストに釘付けになっていたのです。
 和装では洋服とは逆に、女性の胸を強調する事はありません。
 洋装ではバストを大きく美しく見せようという考えが主流ですが、和装においては、実は全く別の考え方をしているのです。
 即ち「大きすぎる胸は美しくない」という考えです。
 正確には、胸が揺れ動く様が美しくないとされており、そのため、昔の女性は胸にサラシを巻いて、乳房を潰したりしていたそうです。
 ……尤も、現代ではそのような考え方は廃れていますが。
 ともあれ、そんな和装に含まれるであろう寝巻姿でありながら、阿傍さまのバストは視線を集めずにはおけない存在感を示していたのです。
 流石に先輩に対して失礼だったと畏縮する私に、阿傍さまは「もう慣れっこだけどね〜」と笑って許して下さいました。
 やはりみんな其処を見るんですね。
「ちなみに何センチありますのん?」
 ついでとばかりに伺ってみると、阿傍さまはその細長い指でご自分の頬を突きながら、うーんと唸り、視線を宙に向けました。
「この前測った時は103センチだったかなぁ?」
 へぇ〜やっぱり大き……

「百三センチ!?」

 想像を超える数字に驚きを隠しきれず、思わず上げてしまった声は、もはや絶叫と呼べる代物でした。
 勿論目の前で聞いていた阿傍さまは寝起きの頭に響いたらしく、片手を額に宛てがっておりました。
「このかちゃん、声大きすぎ……」
 えっと、実に済みません。

 

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