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1
朝の出勤ラッシュも過ぎた頃。JR奈良線、京都駅のホームに降り立ったのは、化粧っ気はないが健康的な肌と髪、そしてやや垂れ気味の温厚そうな双眸を備えた少女だった。
少女自体はこれといって変わった所は無く、強いて言うならば"今時珍しい素朴そうな娘"という印象を受けるくらいのものだった。
しかし、少女は周囲の眼を引き付けて止まないある特徴があった。
それは一体何処で売っているのかと勘繰りたくなるような、伏見稲荷と染め抜かれた布製の旅行鞄でもなく。
少女の足元にぴたりとついて歩く、世にも珍しい黒銀の毛並みと七本の尾を持つ狐でも無かった。
問題は極めて単純明快。
少女が身に纏うその衣装が緋袴に千早という、余りにも巫女さん然とした格好であった為だ。
勘違いの無いように注釈をさせて頂くと、日本の古都として地元住民のみならず、全国ならびに諸外国からの旅行者にも親しまれている京都府は神社仏閣が多く存在しており、近畿地方の神社仏閣巡りの名所のひとつでもある。
だからと言って、巫女さんがその辺をうろうろしているかと問われれば、当然答えは否である。
そもそも巫女だからと言って洋服を着てはいけない決まりなどは無く、巫女装束で電車に乗ろうものならば即注目の的と言うわけなのだ。
しかし巫女装束の少女は周囲の視線など意にも介さぬ様子で、重たそうな荷物を抱えて人波の狭間へと消えて行った。
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伏見稲荷大社を発ったのが朝六時半。JR奈良線稲荷駅から、新幹線を予約してある京都駅までは僅か二駅です。
余裕を持って出てきたとは言え新幹線の時間まではまだ暫らくあり、立ち尽くしているのも難だからと、私たちは駅構内の商店へと足を運ぶ事に致しました。
そう言えばお弁当を用意して来なかったと思い出し、私たちはお弁当を販売している売り子さんの所へと移動し、陳列されている駅弁の物色にかかりました。
「司様は何れがよろしいですか?」
私が司様に問い掛けると、売り子の方は少し怪訝そうに眉を
ひそめましたが、私の肩に乗り売店の品物を見渡して居られる司様が「まむし丼でいい」と仰られると、今度は眼を剥いて驚かれておりました。
驚かせてしまって申し訳ないという気持ちと、その大袈裟な驚き方が可笑しいと思う気持ちが半々で、私は苦笑いをしながら"大阪名物まむし丼"と、自分用にまむし丼より300円ほど安い"穴子弁当"を買いました。
新幹線の発車時刻は午前七時半辺り。
発車迄10分程度の余裕をもって新幹線に乗り込んだ私たちは、先ずその内部の広さに驚きの声を上げたのでした。
「ふわぁ……新幹線って初めて乗りますけど、えらい広いんですねぇ」
私の想像では、新幹線の車内はもっとこう……観光バスのようになっているのかと思っていたのですが、実際はもっと広くて綺麗な内装になっていたのです。
その時に乗り込む乗客の方は私たちだけではなかったので、道を塞いでは申し訳ないと、予約してある席を探しながら通路を歩く事に致しました。
「あ、ありましたよ。9号車のC5、D5です」
グリーン車の前から五列目に、私たちの予約した番号の席は在りました。
「司様、窓際と通路側の席、どちらがよろしいですか?」
荷物で両手が塞がった私の代わりに、売店で購入したお弁当を持って下さっていた司様に尋ねると、口に銜えられたビニール袋を一旦床に置き「今更窓際が良いと駄々を捏ねる歳でもないよ。好きな方にお座り」と仰せられたので、失礼ながら私が窓際に座らせて頂く事になりました。
座席上の荷物入れに、荷物を押し込もうと格闘すること数分。
あまり背の高く無い私は不躾と思いつつも、座席に立って鞄を持ち上げていたのですが、中々どうして。作業は難航を窮めておりました。
「このか、大丈夫か?」
一旦窓側の席に移動されて、私の様子を見守って下さっていた司様が、見るに見兼ねた様子でそう仰ったので、わたしは司様を心配させまいと思い、渾身の力をこめて返事を返しました。
「はい……だ、大丈夫です……!」
「……駄目そうだな」
出発早々から司様に呆れられ、私たちの長く、そして短い旅は始まるのでした。
2
時は遡り、毎年恒例のお正月参拝ラッシュもようやく静まった睦月の暮れ。伏見稲荷大社へと一通の文が届けられました。
宛名は伏見このか。
……そう、この私へと宛てられたものでした。
税金の支払い請求書が如き白い封筒に、無色のビニルが張られた窓つきの手紙。差出人は東京都渋谷区の神社本庁統理……我々神道に携わる人間の、いわばボスに当たる方からでした。
文に書かれた内容は私にとって正に夢のような事で、私は興奮を抑え切れずに、我が師である司様の許へと向かいました。
司様は黒銀の毛並みを持つ七尾の空狐です。
私の扱える術式の師であり、その齢は実に二千を越えらるそうです。
そしてそのお力は御先稲荷(オサキトウガ)の頂点に立たれる天狐、小薄(オススキ)さまよりも強いのではとまことしやかに囁かれている程です。
伏見稲荷の御先稲荷にあって司様のような黒狐は非常に珍しく、また他の御先稲荷の方々と違い、決まった峯に封ぜられる事が無い為もあってか、伏見のお狐様の中でも特別な位置付けに見られる事の多いお方です。
司様と私の関係は、私の物心がつく以前からのもので、私の記憶には何時も司様のお姿があったものです。
そんな理由から、司様はわたしにとって両親よりも信頼が置け、親友よりも心を許せるという、特別な存在。
吉報があれば、両親よりも先に司様の許へ報告にあがるのが私の常だったのです。
勿論この時も例外ではありませんでした。
何時ものように、谺ヶ池の辺で日当ぼっこをして居られる司様の許へ息を切らせながら伺うと、司様は何時ものように柔らかい微笑で私を迎えて下さいました。
興奮気味だった私の話は要領を得ず、結局は司様がお差し延べになられた手に、本庁よりの文を手渡したのでした。
「ふむ、東京の神社庁で働けとな」
司様は、こんな手紙で私が喜ぶ理由が分からないといったご様子でした。
確かに其処だけ見たのならば、別に取り立てて騒ぐ程の事でも無かったのですが……私は身を乗り出し、早くその先を読むよう司様を急かしました。
「その支度代わりに……ほう、國學院への推薦枠を用意しているのか」
問題の部分にはすぐに辿りつけたようで、切れ長の双眸を丸くして、司様は私へと視線を移されました。
そしてゆっくりと瞼を細め、今年一番の微笑みを下さったのです。
「成る程、ずっと大学に通いたいと言っていたからな。善かったではないか」
司様に祝福を頂き、嬉しさが何倍にも膨れ上がったような気持ちでした。
私は何と答えれば良いかすら分からなくなり、唯一言「はい」とだけ答えました。
神社本庁への勤めと申しましても、国家公務員のスカウトを受けたという訳ではありませんでした。
日本全国の神社・神宮及び大社を統轄する神社庁には、宗教法人としての神社を管理するのともうひとつ。
人々と神霊の間に立ち、両者の仲を取り持つという役割を持っているのです。
そしてそれが出来るのは、多くの方々の眼に映らない神霊をその眼に捉えることが出来る者に限られるのです。
幼少の砌より、司様の教えを受けて来た為か、私にはそれが出来た……思い返して見れば、これも総て司様のお陰なのですね。
「司様、有難う御座います」
「うん……急に何だ?」
突然声を掛けられた形の司様は、何の事かと私の掌の生八ッ橋からこちらへと向き直られました。
私は司様のお口周りについているニッキの粉を拭って差し上げながら、言葉を続けました。
「本当に学生生活を送れる事になるとは思うてませんでした。これも総て、司様のお陰です」
膝の上の相手に頭を垂れるというのもおかしな構図ですが、私は謝辞と共に深々と頭を下げました。
「なに、別に私の力では無いよ」
そう仰りながら、司様は私の額に鼻を擦りつけ、そしてこう付け加えられました。
「そもそも、このかが万年赤点ラインを滑空してさえいなければ、普通の大学くらい自力で入れた筈であろう?」
「あうぅ……それは言わない約束です」
「そんな約束、結んだ覚えが無いな」
3
時計に眼をやると、品川駅への到着予定時刻が残すところ後10分程までに迫っておりました。
「司様、もうすぐ到着致しますよ」
そう言いながら、私が膝の上でお休みになって居られる司様の背中を摩ると、前足で器用にお顔を擦り、小さな欠伸をひとつ。
「そうか、ではちょっと着替えて来るかな」
「……はい?」
首を傾ぐ私の膝からひょいとお降りになられた司様は、七ツの尾を揺らしながら、通路の真ん中を堂々と歩いてゆかれました。
「……着替える?」
車内に備え付けられたお手洗いの前で、私は司様が出ていらっしゃるのを待っておりました。
間もなく扉は開け放たれ、そこに現れたのは都会の犬のように洋服を着込んだ司様の御姿……では勿論ありません。
そこに御座すのは、夜桜を描いた仕立の良い和装に身を包んだ、それはそれは麗しい女性で御座居ました。
長く美しい黒髪の間から覗くのは透けるように白い肌。
金色の瞳を湛えた切れ長の双眸は妖艶な色香を放ち、同性の私でもついつい眼で追ってしまいたくなる程の美貌を備えておいでです。
そして何より特徴的なのが、小振りな頭に乗った大きな三角形の耳と、着物の裾を押し上げて、後光のようにその威容を示すボリューム感溢れる七本の尾。
人間には持ち得ぬであろう、神々しさと存在感を兼ね備えたその姿は、白面銀毛の空狐たる我が主。司様の化身された御姿であらせられます。
「急いだからあまり確認出来てはおらぬが……何処か乱れてはいないか?」
そう仰りながら、司様はその場でゆっくりと一回転されると、わたしに意見をお求めになられました。
後ろの裾が七尾で大きくめくれ上がっておいででしたが、その下にお召しになられている襦袢はお尻の辺りまでスリットが入っている特注品。
司様御自身の尻尾によってその御美脚を拝す事は出来ないよう細心の注意が払われた構造になっている、職人業が光る逸品となっております。
そこに関しては直しようもないので(だから特注の襦袢を召されて居られる訳ですし)省くとして、襟元も合わせも、帯も帯留めも総て一糸乱れぬ完璧な着こなしをされておいででした。
「何処もおかしな所はございませんよ。とてもお美しゅうございます」
その御姿に見惚れながら目一杯の言葉を差し上げたのですが、どういうわけか、それを受けた司様はふんと鼻先でお笑いになられたのです。
「このかは何時も同じ事しか言わぬから詰まらぬ」
そんな殺生な……
「それにしても司様?」
「うん、何だ?」
座席に戻り、荷物を纏めながら、私は素朴な疑問を司様へと投げかけました。
「何故此処で化身なされたのですか?」
司様が私と出掛けられる際、たいていの場合は狐の御姿のままで居られるので、何故此処で人の姿に化身されたのか疑問に感じていたのです。
「そういえば、このかは東京の駅の混み様を知らぬのだったな」
司様は私の疑問に直接答える事はせず、私の上京が人生初である事の確認をされました。
しかし混み様と申されましても、梅田ならば何度もご一緒した事があります。いくら日本の首都といえど、京都・大阪とそうは変わらないのではないでしょうか?
それに、混んでいる事と司様が化身された事の関連性が、私には把握出来ませんでした。
「東京の駅は人が多い事に加えて、どいつもこいつも皆時間に追われておる。そんな中で膝より下を見ながら歩く者など居るまいよ」
司様のお声には僅かに苛立たし気な音声が含まれておりました。
「……あの、もしかして以前踏まれた事が?」
結局司様がその問いに答えられる事は無く、眉根を寄せた顔に、不満そうな影が微かに落ちただけでした。
さて、神社庁より迎えの方が来て下さるとの事でしたので、司様と私は待ち合わせ場所、JR線の改札口を探して歩き出しました。
品川の駅は確かに人が多く行き交っておりましたが、やはり私の記憶にある梅田の同時間帯の構内と、さほど変わる印象はございませんでした。
ちらと司様へと眼を向けてみても、まるで何事も無かったかのように涼しい顔をして居られるあたりは、流石としか言いようがありません。
ですが、今はそれよりもずっと気になる事があります。
「あの……司様」
「なに?」
「何だかさっきからえらい視線を感じますのやけど……」
そう、新幹線を降りてからずっと、周りの人々から好奇の視線が向けられている事をひしひしと感じているのです。
「そんなもの、京都に居る内からずっとであったろう」
「いや、そうですけど。こっちの方が露骨に見られる気ぃが」
京都での視線は、珍しい物を見る目であると感じたのですが、こちらでの視線はまるで「変な物を見る目」のように感じられるのです。
京都市内ならば、装束のまま買い出しに出ることもあるので、住民の方々も馴れたご様子で挨拶をして下さるのですが、やはり東京でも同じようにとは行かないようです。
「ふむ、やはり巫女装束は目立ち過ぎだったかな」
「いえ、半分くらいは司様が……」
「うん?」
「……何でもございません」
途中、駅員さんに道を尋ねながらも、私達は山手線の改札口前へとたどり着きました。
時計を見れば、午前十時四十分。待ち合わせの時間は午前十一時ですので、それまで奇異の眼にさらされながら待つのかと肩を落しながら、私はふと感じた疑問を司様に伺ってみました。
「司様、ぶっちゃけ装束のままで来る必要があったんでしょうか?」
司様が和装なのは普段着なので良いとして(耳と尻尾で相当目立って居られるのですが)、私が巫女装束を着ている事に関しては、まるで意味を見出だす事が出来ませんでした。
「神社本庁の統理と会見するのだぞ? 正装で臨むのが礼儀であろう」
「いえ、ですから巫女装束でなくとも良かったんやないのですか?」
何だかまるで、私が装束以外の礼服を持っていないとでも言うような仰せ様に、少々むきになりつつ反論を重ねました。
「このかは神社庁の巫女になるのだぞ? 巫女の正装は白衣と緋袴に決まっておろう」
ぴしゃりと言い切られ、私は反論の糸口を失ってしまいました。
確かにそう言われるとそんな気がします。
私が言葉に詰まっていると、司様は追い撃ちをかけるように、少し離れた柱の辺りを手でお示しになられました。
「あそこに居る男を見てみろ。神社庁の者と一目で分かるぞ」
司様の指先を追うと、其処にはこのご時世に陣羽織という、私達同様、明らかに周りから浮いた格好をされた男性が立って居られました。
それと同時に、男性はこちらに気付かれたらしく、私達の方へと歩みを向けられたのです。
4
山手線品川駅の改札口前、少しの人垣を挟んで対峙するのは、片や見目麗しい妖狐と何処にでも居そうな普通の巫女の二人組。
片やネクタイは締めて居ないものの、ワイシャツにスラックスという、極有り触れた格好の男性。
……と申し上げたいのはやまやまなのですが、先方も私達に負けず劣らずな出で立ちで居られました。
「えっと……司様、あの衣装は何と言いましたっけ?」
「袖無裾開き背割仕立て胴服だな」
「いえ、もう少し一般的な名前で……」
「陣羽織か?」
「そうそう、それです」
そんな無駄話をしている私達の許へ、件の男性は躊躇いなくまっすぐに向かって参られ、そしておよそ二歩程度の距離を置いて立ち止まりました。
「伏見このか殿と、御先稲荷の司様ですね?」
男性の声は低く落ち着いた印象で、聞いていて心地良いと感じられるものでした。
「はい、私が伏見このかで御座居ます。こちらは空狐であらせられる司様です」
自ら名乗りを上げ、継いで掌で指し示しながら司様の紹介をすると、司様は小さく会釈されました。
「やはり、一目で分かりました」
確認を済ませると、男性は破顔一笑されました。
身長も高くかなり体格の良いお方で、尚且つ鋭い目付きをお持ちになられていたためか、出で立ちとギャップのあるその笑顔が……男性に対しては失礼に当たるかも知れませんが……可愛らしいと思ってしまいました。
「申し遅れました、自分は神社庁よりの遣いでお迎えに上がりました。一青百鬼と申します」
腰に手を当てがわれて、やや浅めにお辞儀をなさる様子はまるで現代の武士とでも申しましょうか。
整った目鼻立ちと、きりりと太い眉が凛とした印象を醸し出しており、その武士然とした態度がよく似合っておいででした。
「シトモト ナギリ様ですね。未熟者では御座居ますが、何卒宜しくお願い申し上げます」
私の方も負けじと頭を垂れ、深々とお辞儀をして反しますと、丁度面を上げかけて居られた一青様は「あ、これはご丁寧に」と、再び頭を下げられ、私も「いえいえそちら様こそ」と、日本人によく有りがちなお辞儀ループに陥ったのは言うまでもありません。
仕舞いには、すっかり呆れ顔の司様に窘められて、二人でばつが悪そうに笑い合うという始末でした。
「予定より早いですが、早速参りましょうか」
「はい、お願いします」
気を取り直し、私達は一青様の案内に従い神社本庁へと向かう事に致しました。
一青様の言葉通り、合流予定の十一時まではまだ暫しありましたが、あまりに私達へと向けられている視線が痛かった事もあり、本日の予定は満場一致で前倒しとなりました。
「では、先ずは原宿行きの切符を……伏見殿」
「は、はい?」
切符売り場を示されながら、ふと言葉を切った一青様に突然呼ばれ、私は思わず上擦った声で返してしまいました。
「切符を購入して頂く必要があるのですが、荷物をお預かりしましょう」
言うが速いか、一青様は私の手から旅行鞄をひょいと奪い、もう一方の掌で券売機の並ぶ一角を示されました。
そこに見えるは長蛇の列。
司様の仰る程は混んでいないと感じた品川駅でしたが、局所的にはやはり人溜まりが出来ているものなのですね。
「では、不肖伏見このか。只今より原宿行きの切符を買って参ります」
「うむ、しっかりな」
「始めはややこしいので気をつけて下さい」
見よう見真似の敬礼をして意気込みを示すと、司様は微笑で激励を。一青様は苦笑でご忠告を下さいました。
何だかこの歳になって“はじめてのおつかい”に出演しているような気分ですが、これからの住まいとなる東京で、電車の切符一つ買えないようではお話しにもなりません。
(せやけど、券売機なんて西も東もおんなじですよね?)
券売機前の行列が進み、段々と自分の順番が近付くにつれて、胸の鼓動の高まりを感じていました。
こんな所で緊張している場合ではないと、自分で自分に喝を入れると、券売機の上部に並ぶ料金表に、眼力で穴が空くのではないかと思うほどの視線を向けました。
しかし、探せど探せど“当駅”の文字が見当たりません。
必死に料金表……地図みたいになっているあれです……を視線で舐め続けている内に、私の前に並ぶ人は一人、また一人と減って行き、ついに私が先頭に立つ時が来てしまいました。
……もう帰りたい。
5
(そういえば私、電車に乗るんが苦手だったんやわ)
その事を思い出したのは、券売機の前に立ってから暫くしてからでした。
列の後ろに並ばれた方々の迷惑そうな視線を背中に受けつつ、私の視線は未だ、券売機上の料金表をさまよっておりました。
やがて、様子に気付いた駅員さんが駆け付けて下さり、漸く私は原宿行きの切符を購入する事に成功したのです。
「すみませ〜ん。お待たせしました」
人としての礼儀……というより、本当に待たせてしまっていた事にお詫びを入れながら、私は司様と一青様、お二人の許へと急ぎ足で戻りました。
「遅い! あまりに遅いからこのかの列車に纏わる失敗談を語り尽くしてしまったではないか」
「え、えぇぇっ!?」
そんな思い当たる節が有りすぎる事を、今日会ったばかりの方にばらさなくても良いではありませんか。
半ば悲鳴近い声をあげた私に、司様は掌を差し出されました。
「ぐずぐずしていたら折角早く来た意味が無くなってしまうぞ。のんびりしてないで急がぬか」
「は、はい。申し訳ありません!」
本当は司様も急ぐ理由などは無いはずなのですが、よほど東京の駅がお嫌いなのか、やたらと私を急かして来るので、ついつい司様の良いなりになってしまうのでした。
「はいどうぞ。こちらは一青様の分です」
司様に一枚。そして一青様にも一枚。原宿行きの切符をお渡ししようとすると、何故でしょうか、一青様は眼を丸くして驚かれているご様子でした。
「伏見殿、自分の分は結構ですよ?」
「え?」
そう言って一青様はご自分の財布を取り出し、定期入れの部分を私に示して見せたのです。
「自分にはこれが有りますので、お気遣いは無用、だったのですが……先に言っておくべきでしたね、申し訳無い」
ぺこりと頭を下げられる一青様に、逆に申し訳ない気分になった私がどう返そうかとオロオロしている横から、司様の容赦ないフォローが入りました。
「気にすることは無いぞ。いつものはやとちりだ」
「あうぅ……」
そう言われては、返す言葉がないというものです。
一青様は代金を払うと申し出て下さったのですが、こちらの不手際を払わせる訳には行きません。そこは丁重にお断りして、私達は次なる目的地、原宿へと向かう電車へと乗り込んだのです。
丸い緑の山手線♪ というコマーシャルを見たのは何時だったでしょうか。
関西出身の私には馴染みがないはずのフレーズが印象に残っており、山手線は東京屈指の鉄道であると思っていた私から見ると、今乗り込んだ電車は、余りにもがらんとしていました。
「私、東京の鉄道はもっと混み合っていると思って居たのですけど、こうやって見ると案外そうでもあらしまへんのですねぇ」
そう話し掛けると、一青様は微笑して解答を下さいます。
「今の時間帯は丁度空いている時間なのですよ。もう少ししたら、勤め人が昼休みに出てくるので多少は賑わいますが……7時代などは凄いですよ?」
「それは是非遠慮したいな」
真っ先に返されるのは、勿論司様です。
すいている座席に腰掛け、尻尾のボリュームで数人分のスペースを占有しておいでです。
その隣には、近くの親子連れのお子さんの方が司様に興味を持ったのか、幼い瞳を爛々と輝かせながら、司様の尻尾を見詰めて居ります。
「自分も、用が無ければ避けたい時間帯ですね」
それには一青様も苦笑で返すしか無かったようです。
「そう言えば、もしかして一青様も関西のご出身ですのん?」
不意に問い掛けると、一青様はひどく驚かれた様子で眼を丸く見開かれました。
「よく分かりましたね。幼少は鞍馬寺に身を置いておりました」
私は一青様の言葉のイントネーションが、私達のそれに近い気がしたので申し上げただけだったのですが、一青様はまるで「今まで一度も言われたことが無かった」と言うようなご様子でした。
「まあ、鞍馬さんの! では割に近所やったという事ですね」
「そうなりますね」
そうやって、一青様と私は笑い合い、司様は好奇心溢れる少年に尻尾をもふもふされて居られました。
「ああ、それと伏見殿。自分は様付けで呼ばれるような身分ではありませんし、何より……その、むず痒いのです。どうぞ、もっと気安く呼んで下さい」
武士然とした一青様は、どうやらそう呼ばれる事に気恥ずかしさを感じるようです。
先達の方を立てるのは、若輩者には当然の事ですが、ご本人が嫌がられるのならば、断る方が失礼と言うもの。
「分かりました。では、これからは一青さん。と呼ばせて頂きますね」
「助かります」
「ただし、私の事も“伏見”ではなく、名前の“このか”で呼んで頂けませんか?」
私の突然の申し出に、一青さんは少し困惑したような表情を見せました。
そしてそれでは通じないぞ。と仰るように、少年の頭をぽんぽんと叩いてあやす司様が注釈を付け加えてくださいました。
「伏見大社の者にとって、伏見という名は人間を指すものでなはく神社を指す名称だからな。言ってしまえば“神”と呼ばれる感覚に近いかも知れん」
それを受けた一青さんは、成る程と頷かれ、再び私の方へと向き直りました。
「分かりました。では、これからはこのか殿。と呼ばせて頂きます」
私の言葉をオウム返しにするように仰られて、一青さんは破顔一笑されたので、私も目一杯の笑顔でそれに応ました。
「はい、どうぞよろしゅうお願い致します」
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