Dimension Force

〜神剣の担い手〜

18

 初めて出会った時から、私の心は君に奪われてしまっていた。
 あれは私が軍学校に在籍していた頃だ。陸軍士官でありドイツ語の講師でもあった恩師の邸宅に、私を含む教え子数名が招かれた。そこで私達は出会ったのだ。
 君は小柄で可憐な少女だった。
 とても小さくて、風に吹かれればたちまちに倒れてしまいそうな花を思わせる。しかし凛と背筋を伸ばし、健気に生きている、無垢で可憐な撫子のような少女だった。
 そんな君に、私をはじめ場に居た男達は皆心を奪われていたのだ。
 私の目的はいつしか“愛する祖国を護ること”から“君の愛する祖国を護ること”へと替わっていた。
 君の笑顔を護る為に、私は君の居るこの国を。
 日本という国を護りたかったのだ。

 ……ほむらさん。

 どこかで私を呼ぶ声が聞こえる。
 今にも消え入りそうなか細い声。
 ともすれば聞き逃してしまいかねない程弱々しい声だが、その声は確かに私の耳へと届いた。
 どんな時であっても忘れた事は無かった。

 ほむら……さん……

 すぐ近くに居る筈だ。私は声の主を探し、辺りを駆け回る。
 ふと振り返れば、あちこちに当て布が縫い付けられている服を着た少女が、私の背後に立ち尽くしていた。
 小さな身体も、艶やかな黒髪もあの時のままだ。きらびやかな着物を着ることは無くなってしまったが、それでも彼女の美しさは少しも褪せてはいない。
「薫子さん、其処に居たのか」
 私は嬉しくなり、彼女へと歩み寄った。
 どうして下を向いているのだい? 私に顔を見せておくれ。
 そう言って私は、彼女の頬へと手を伸ばした。
 彼女のしなやかな髪に指先が触れると「はらり」と、細い髪の毛が宙を舞った。
「……?」
 訝しく思い、私は右手を頬に沿え、無理矢理にならないよう軽く顔を上げさせようとした。にも関わらず……
 まるで乾いた土を掴むが如き感触が私の手に伝わった。
 同時に、彼女の頬が私の手の中で崩れた。
 
 ほ……むら、さ……

 彼女が顔を上げた。木炭のように黒ずみ、ひび割れ、そして半分が崩れ落ちた顔で私を見た。
 首を曲げた為に其処から亀裂が走り、頷くようにコロリと首が落ちた。地面に触れた瞬間、彼女の首は瞬く間に灰燼へと帰した。
 残ったのは、私と初めて会った時に着ていた、薄紅色の愛らしい着物を着た、首無しの少女だった。
他には……何も無い。


 ――隊長は、何故泣かないのですか?

 いつの間にか、私の足元には一人の少年兵が四つん這いになっていた。
 嗚咽を漏らしながらも、少年は私にそう問い掛けた。
 自らの頬に触れてみても涙で濡れた様子は無い。少年の言う通り、私は涙を流さなかったようだ。
 どうしてだろう? 今でもよく分からない。
 とても哀しい筈なのに。言葉に出来ない感情で胸が張り裂けそうなのに。
 私の眼から涙が零れることは、ついに無かった。
 それでも私は、少年に向けて答えた。
まるで何かに取り付かれたかのように。頭で考えるよりも先に、言葉が淡々と口をついて溢れ出してきたのだ……



 私が眼を醒ますと、其処には首無しの少女の姿も、泣き崩れる少年の姿も無い。狭苦しいコンクリイトに四方を囲まれた、無骨な空間が広がっていた。
「……国綱、時間は?」
 天井の一点を見詰めながら、私は何処へとも無く問い掛ける。
「午前四時。空が白み始めてるぜ」
 すかさず国綱の声が帰ってくる。
「魘されてたみたいだけど、あの日の夢でも見てたのかい?」
「いや……そうだな」
 一度否定しかけたが、きっと国綱の言う通りなのだろうと自嘲気味に笑う。
 あの日の絶望に囚われ続けている自分がこのような悪夢を見せたに違いない。
 だが、今は何も考えるまい。
 彼女が愛した神国日本を取り戻す。その礎となれるのならば、私は……!

 

19

「Oh! サムライ! サムラーイ!」
 其処は新宿区郊外のホテルだった。豪奢な調度品に飾り立てられた広いロビーに犇めく黒服の男達の中で、丸々と肥えた白人男性が楽しげな声を弾ませている。
 本日夕方の便で羽田に到着したアメリカ外務大臣、ティモシー・レーサーである。
 昔から名の知れた親日家であるのだが、どういう訳か、アメリカで最近推し進められている親中政策の舵取を任されている男だった。
 アメリカ人にとっては、日本も中国も似たようなもの程度にしか考えていないのかも知れない。
 ちなみに、レーサーがご機嫌で語りかけている相手は、腰に刀を差し、ワイシャツの上に陣羽織という出で立ちの男……言うまでもなく一青百鬼であった。
 神社庁統理経由で皇室に連絡して貰い、今上天皇から正式な御達示を受け、百鬼以下四名の特別対応班がレーサー外務大臣の護衛として派遣されていた。レーサーはその待遇を少しも訝しむ事なく、今上天皇の配慮に感銘を受けていた様子であった。
 そして今は武士然とした百鬼の出で立ちに興奮しているところである。
「うふふ、随分楽しそうですねぇ」
 片言の日本語で質問責めにされ困惑する百鬼に、閻がそう声をかけた。完全に面白がっている口ぶりだ。
「阿傍殿、笑っていないで助けてください」
 百鬼の懇願にただ笑顔で返すのみの閻は、どうやら助ける気など毛頭ないようだ。
「良いじゃないですか、有名人と仲良くなれるチャンスなんてそうそうありませんよ?」
「Oh Fantastic」
「ふぇ?」
 相変わらずのテンションだが、閻が登場した途端、レーサーの関心の矛先が変わった。
 成る程、考えて見れば閻も和風の衣装に身を包んでいる。
 尤も閻の式服は和装ではなく、正確には大陸系術士の系統を汲むものだったりするが、レーサーにはそんな事まで分かるはずもなかった。
 目の前に和服っぽい衣装に身を包んだ黒髪巨乳美女が現れた程度の認識だろう。
 レーサーの口からは矢継ぎ早に閻の容姿を褒め讃える言葉が紡ぎ出される。そして隙あらば食事にでもと、僅かなチャンスを狙っているのだ。
 しかし閻もさるもの。こういった男の対処はお手のものと言わんばかりに、レーサーのアプローチをひらりひらりと交わしていった。

 数分後、ヒートアップしすぎたレーサーはセキュリティポリスの黒服達に自室へと強制連行されていった。
「面白い人ですねえ」
 結局褒めちぎられただけの閻は、ティモシー・レーサー外務大臣をそう評した。
「あの性格でよくスキャンダルを起こさないものですね」
 対する百鬼は辟易と言った様子だ。
 黒服に両脇を抱えられながら引きずられるレーサーの後ろ姿を見送りながら、深い溜息をついた。
「まあ、あの人まだ独身ですからね。自己責任で済ませられちゃうんじゃないですか?」
「成る程……」
流石は自由の国アメリカから来ただけはあると、百鬼はピントのずれた感想を抱きつつ、レーサーの乗せられたエスカレーターの扉が閉まる様子を見守った。

「……本当に来るんでしょうかねえ?」
 時刻が深夜二時を回っても、山下焔群はおろか、不審な人物の一人さえもホテルには現れなかった。
 気の抜けた様子の閻とは正反対に、百鬼は見ているだけで疲れてしまいそうな程に気を張っている。
 ホテルはレーサー外務大臣の宿泊している十二階の全部屋を押さえてあり、エレベーターや非常階段にも黒服が無数に配されている。
 侵入経路は無いに等しい。
「こんなガチガチに警備されてる所より、出かけるところを襲うとかじゃ無いんですか?」
「それでは武装したボディーガードが無数についていますからね。山下焔群といえどそんな所に手出しは出来ない筈です」
「うーん、じゃあボディーガードがいない。若しくは離れる時を狙うって事ですか?」
「そういう事です。そして恐らく、それは今夜部屋に一人で居る間……だと思うのですが」
「クモ男でも無い限り、無理だと思いますけどねぇ」
 アメリカンコミックスのヒーローを例に挙げながら、閻が所感を述べる。
 実は百鬼にもそれが疑問ではあったのだ。
 本当は空港や、ホテルに到着するまでの間に襲撃があるものと思っていたのだが、ついにそんな気配も感じさせないまま日付が変わってしまった。
 これ以降、山下がレーサーを襲う事が出来るチャンスがあるのだろうか?
「当日の移動は更に護衛が増えますし、むしろその時に襲って来て欲しいですね」
 冗談めかして閻が言った。
「でないと、後は会談中くらいしか無いですもんね。たまに皇居から出られるって時に目の前で刃傷沙汰とか、陛下もたまったものじゃ無いでしょう」
「……阿傍殿、今何と?」
「へ?」
 閻の言葉を受け、百鬼の目つきが突然変わった。
「天皇陛下が皇居より出られる時……そう言いましたね」
 物凄い勢いで詰め寄ってくる百鬼に身じろぎしながら、閻も百鬼の言わんとしている事に思いが到った。
「まさか……山下焔群の目的って!?」
 閻の頬を冷たいものが伝う。
 百鬼は小さく頷き、刀を手に取った。
「急ぎましょう。開門前に山下は侵入してくる筈です」

 

20

 玉藻池の辺に腰を降ろし、山下焔群は深く息を吐き出した。
 その夜も空気がべたつくような熱帯夜であったが、新宿御苑の木々や水が僅かに熱気を和らげてくれていた。
 近くでは大きな亀が水面から首をもたげ、焔群の姿をみるやボトンと音を立てて水中へとUターンする。そんな何気ない事柄に、ここ数日の逃亡生活では味わえなかったささやかな安らぎを感じていた。
「まさか、御苑に足を踏み入れる事が出来るとは思いもしなかったな……」
「なんだ? こんな所に来たかったのか?」
 山下の呟きに反応したのは、勿論国綱だ。
「昔はこんな場所いくらでも有ったんじゃないのか?」
 自身の印象で語りながら、国綱は首を傾ぐ。
「そんな事はない、確かに今の町並みと比べれば何処ももっと日本的ではあったが、このように広く手入れの行き届いた庭園はお大臣の邸宅でも中々目にかかれる物ではなかったぞ。第一、新宿御苑は一般の者が立ち入る事が出来なかったのだ……一度来てみたいと思っていたが、このような形で実現するとはな」
 そう言いながら山下は眼を細めてどこか遠くを見つめた。
 恐らく、一緒にこの場所を歩きたかった相手を思い出して居るのだろう。
「此処は素晴らしい……日本の美と精神を映し出すかのような庭園。外国の文化を取り入れ、一体化した花園。古きを温め、良きものを積極的に取り入れたこの場所は、正しく日本のあるべき姿だ」
 そうして山下は二度三度と深呼吸を繰り返した。この新宿御苑の夜景と空気に、自らの理想とした未来を感じているに違いなかった。
「本当は皆もそう思ってるさ。ただ、今は国の頭がそれを阻んでいるんだ。そいつらさえ何とか出来れば……」
「……日本は甦る!」
 自らの発言に同調した国綱の言葉を継ぎ直し、山下は眦を決する。
 静かな覇気に気圧されたか、音もなく水面に波紋が広がった。
「そのためにもアンタの力が必要なんだ。山下少将」
 ゆっくりと焔群に歩み寄り、国綱は右手を差し延べる。片腕のない山下への配慮と、同じ大義に生きる同士との結束の証として。
 勿論山下もその手を取ろうと手を伸ばしかける……が。
「……ッ!」
 突然の鈍い痛みに、山下の右腕は力無く地に落ちた。
 まるで身体が内側から石化してゆくような違和感と痛み。腕に全く力が入らず、右腕がもげてしまったかと言う錯覚に囚われた程だ。
「おいっ、大丈夫か!?」
 その様子に国綱は、慌てて山下の身体を支える。
「大丈夫……ふふ、御苑の美しさに気が緩み過ぎてしまったかな?」
 国綱に心配をかけまいと、山下は冗談めかしてそう言った。
「なんだよ……もう。今はあんただけが頼りなんだ。しっかりしてくれよな」
「済まない済まない」
 国綱は安心したような表情を見せては居るが、自分の体調の事などとうにばれているだろう。
 だが国綱は深く追求はしなかった。そうする他は無いのだろうが、こんな自分でも信じてくれているという事が山下には有り難かった。
「取り敢えず朝まで休んでてくれ。開門時間には起こしに来るから」
「ああ、頼む」


「隊長……隊長はどうして泣かないのですか」
「どうして涙を流さずに居られるのですか」
 何故だろうな……私も心の真ん中を抉り取られてしまったような痛みと悲しみに苛まれて居るというのに。
「畜生ッ……こんな、こんな非道な事が……畜生ッ!!」
 そうだ。悲しみよりも痛みよりも、もっと大きなものが私の心を支配しているからだ。
 これは怒り、そして憎しみ。
 あのひとを失った私には、復讐以外の目的などは無く。天皇陛下へと奉げた忠誠心以外に、心の支えなど残っては居ないのだ。

「鬼は泣かぬ……我等は護国の鬼となりて、鬼畜米帝の一兵卒に至るまで根絶やしにし尽くす。それまでは、涙など要らぬ」


 ……眼が醒めた時はまだ夜明け前だった。
 国綱が来た訳でも無い。
 それでも、山下焔群は目を醒ました。
「やはり来たか……」
 上体を起こし、真っ直ぐに見据える先に彼は居た。
「一青百鬼」 

 

21

 うっすらと白み始めた空の下、二人の剣士が対峙する。
「君ならもう一度現れるだろうと、そう思っていた」
 休憩所のベンチに横たえていた身体を起こし、山下焔群はゆっくりと立ち上がった。外套の右を肩の後ろへ撥ね上げ、剣に手を置く。
 対する百鬼は右手に刀を提げ、ただ静かに佇むのみだ。
「……何か言いたいことでもあるのか?」
「色々な」
 山下の問い掛けに短く答え、百鬼は一歩、また一歩足を踏み出した。止水の覇気を纏ってはいるが未だ戦意を感じさせない、その姿に山下も柄に掛けた手を降ろす。
「天皇襲撃とは、大戦時代の軍人とは思えない計画だな」
 静謐な玉藻池に百鬼のよく通る声が響いた。声に驚いた亀が水音を立てて水中へと潜る。
「ほう……」
 直接は答えず、しかし山下は感心したと言わんばかりに声を漏らせた。
「山下焔群は親天皇派の忠臣で、七生報国の精神を体現したような人物だったと聞く。ならば貴方は何者なのだ? 山下焔群はもう六十年も昔の人間だ。今目の前に居る貴方がそうだとは、とても信じられない……」
 そして百鬼はそっと目を伏せ、いやしかしと頭を振って山下へと視線を戻す。
「だが、貴方の剣は他人の名を騙り凶刃を振るう殺人鬼の剣ではない。直に立ち合ったからこそ分る。山下焔群、貴方がアメリカへの復讐を目的とする事は分かる。だが、何故天皇陛下を狙う。怨恨の炎で世界の総てを燃やし尽くすつもりか!」
 百鬼の怒声を受けた山下だが、すぐに答えようとはしなかった。
 すぐさま周囲は静寂に包まれ、遠くの国道を走る自動車のエンジン音が彼らの耳にまで届いた。
「……フッ」
 やがて山下は小さく笑いを漏らせた。
「私の目的を看破して此処まで来た……という訳では無いようだな」
 言いながら山下も一歩、また一歩と歩みを進め始める。
「私の忠誠心は今も何ら変わってはいない。お国の為、神国日本の未来の為ならばこの命、幾らでも投げ打つ心算だ」
「ならば何故日本の象徴である天皇を……」
「象徴だと? 笑止千万。我が身可愛さに国ごと売り払った彼奴らには、国賊の名こそ相応しかろう!」
 怒号一発、山下は片手で剣を抜き払い、手の中で反転させ、順手に握る。
「我らが全霊を賭して守ろうとしたものを易々と売り払ったのだ。臣民全員の精神を踏み躙る行為……ひいては日本に対する叛逆も同然! ならば護国の鬼と化したこの山下焔群に討たれるもまた必定」
「そう言って罪の無い市民を何人も手に掛けたのだろう。貴様が忌み嫌う大量殺戮者と一体どれ程の違いが有ると言うのか!」
 山下の抜刀が心に火を点けたのか、百鬼も声を大にして山下を批難する。
 しかし山下は鼻白ぐどころかニヤリと邪悪な笑みを浮かべた。
「私が罪のない人々を殺めた罪人だと言うのならば、其れは彼奴も同じ事。彼奴は我ら唯一の拠り所を奪った。日本人七千四百万の心を殺した大罪人だ! その大罪人がこの国に深く食い込んだ棘ならば、この私が取り払ってくれよう。たとえ悪鬼羅刹へ身を窶そうと、お国の為に落ちる地獄ならば寧ろ本望! 何人たりともこの剣鬼、止めることは敵わぬぞ」
 切っ先をまっすぐに百鬼へと突きつけ、山下は高らかに宣戦を布告した。
 その瞳にも声にも、そして剣(こころ)にも、一転の曇りさえ見ては取れない。
 これこそが山下焔群という男の正義なのだ。
「違う……と言っても、最早聞き入れはしないだろうな」
 半ば落胆したように百鬼は大仰に溜息をついて見せた。
「君も剣士だろう、ならばコイツで奪い合う他あるまい」
 ずいと踏み込み、さらに語気を強める山下に百鬼は右手の金剛丸へと目を向け、それを左手へと持ち替えた。
 右手で柄を握り、音もなく鞘を取り払う。
 月の輝きも薄れた未明に、明星でも映したか。互の目刃がきらりと光る。
「……鞍馬流、一青百鬼」
 正眼に剣を構え、百鬼が鋭く呟いた。
 鞍馬という言葉に一瞬目を丸くしたものの、山下も剣を構えなおし、改めて名乗りを上げる。
「戸山流、山下焔群」
 二人の剣士が対峙し、剣を構える。
 此処から先、言葉のやり取りは不要。
 交わされるは互いの刃。
 散らすは鋼の火花のみ。

「いざ!」 

 

22

 先に仕掛けたのは山下だった。
 刀を胴体に引き付け、両手ならば腰だめの姿勢で弾かれたように百鬼へと殺到する。
 対する百鬼は腰を沈め受けの体勢をつくる。
 百鬼の射程に入るか否かの境界で、山下は鋭い突きを放った。
 しかし見切っている。
 最少の動きで山下の剣を払おうと、百鬼は左の腋を微かに閉じた。切っ先の届く瞬間にそれを払いのけ、返しの刃で山下の切り返し諸とも叩き伏せる心算である。
 しかし山下の剣が百鬼の手元に届く直前、その切っ先が小さな孤を描き百鬼の腕の下に滑り込んだ。
 何が起こったかを理解する暇も無い。百鬼は直感的に両腕を上げ、同時に横飛びで山下との距離をとった。
 意表を突かれながらも百鬼は冷静である。くるりとワルツを踊っているかのような回転、ともすれば優雅にさえ映る山下の払い上げを視界の端に捉えながら、百鬼は着地と同時に横薙ぎを見舞った。
(とった!)
 斬撃の直後を狙い撃ちにされれば、如何に体捌きに優れた日本刀剣術であろうとひとたまりもない。
 百鬼は己の勝利を確信してその一撃を放った。しかし主の期待に応える事なく、金剛丸は虚しく空を切った。
「!?」
 何故手応えが無いのか。
 予想外の事態に百鬼は慌てて山下の方へと振り返る。
 それと同時に、山下は急制動をかけ、もう一度身体をくるりと反転させてその場に立ち止まる。
 両者の間には、一足飛びでは届かぬであろう距離が開いていた。
(馬鹿な……)
 表情にも、無論口にも出しはしないが、この距離は百鬼を驚愕させるには十分過ぎる長さであった。
 そもそも剣術において、斬戟を放つ時には必ずと言っていい程、使い手の足が止まる。何故なら、刀の斬戟は強烈な踏み込みとともにあって初めてその威力を発揮する物であるからだ。
深く、力強い踏み込みによって初めて、鋼すらも切り裂く一太刀を繰り出す事が出来る。
 そしてその踏み込みの際には、必ず使い手の動きは鈍る……達人同士の戦いにおいては、その僅かな減速であっても、停止するのと動等の隙を晒さざるを得ないのだ。
(だが山下焔群はいま、明らかに斬撃と同時に走り抜けて行った)
 困惑する百鬼。しかし対する山下は考える時間すら許しはしない。
 前から後ろへ、右から左へ。変幻自在の剣で襲い掛かり、それでいて百鬼の反撃が届く前に範囲外へと抜け出してしまう。
 二合三合と刃を交える度、自らの精神力が削り取られて行くような感覚に襲われる。
 浅い踏み込みの……その上片腕一本での剣撃とは思えぬ程に、山下の一撃一撃は速く、重い。
「動きが鈍いぞ、一青百鬼。臆したか!」
 裂帛の気合いとともに、身体の捻りを加えた逆袈裟が百鬼を襲う。
「クッ!」
 咄嗟に剣を引き寄せ、真っ直ぐに立てた刀身で山下の剣を受け止めるも、強烈な一閃に百鬼の巨体がぐらつく。
 ほんの一瞬の千鳥足。しかしそれを見逃す山下焔群ではない。払い上げた刀をくるりと反転させると、今度は袈裟懸けに斬戟を見舞う。
 鋼と鋼がぶつかり合うような、甲高い金属音が周囲の空気を激しく揺さ振った。
 体格に大きな差は無く、しかし山下は隻腕というハンデを背負っている。にも関わらず、鍔迫り合いで優勢を保って居るのは、山下焔群の方であった。
 山下が振り降ろした剣を、百鬼が片膝を折り、持ち上げるような形で堪えている。
 体勢、そして位置の与えるエネルギーが両者の優劣を物語るかのように、じわりじわりと百鬼の剣が押し下げられて行く。
「先日のように、このまま刀をへし折ってくれようか?」
 そう言うと山下は刀を握る手に更なる力を込めた。
 薄ぼんやりとした光に包まれていた紛い物の刀が、みるみる内にその輝きを増して行く。
 そして神剣を携えた右手を一気に引こうとした、正にその時だった。
「調子に……乗るなっ!!」
 山下が剣を引くのと同時に、百鬼もまた剣を一気に払い上げた。
 互いの刃が擦れ合い、刀身を包み込む光諸とも、猛烈な火花を生み出した。
 力の奔流が辺り一面を白一色に染め上げる。 

 

23

 光の奔流に飲み込まれたのも束の間、周囲は瞬く間に薄明かりの景色に戻った。
 しかし、その光に眼が眩む事もなければ、明暗の切り替わりに瞳孔が混乱することもない。
 当人達、一青百鬼と山下焔群の二人はそのことを微塵も訝る様子も無く、ただ静かに互いに距離を離した。
「成る程……」
 口を開いたのは山下焔群である。
 山下は眉一つ動かさず、それどころか余裕たっぷりの声で百鬼へと話し掛ける。
「霊刀か。今回は大層な刀を持ち出して来たようだな」
 そう、山下はたった今の打ち合いで、百鬼の刀が自らの刀と同様の力を宿して居ると気付いたのだ。
 四次元方向の質量を持つ刀同士がぶつかり合い、激しい光の奔流を生じさせた。
 即ちそれは、お互いのディメンションフォースの激突に他ならず、それによって生じた光も、二人が“眼で見た”と錯覚しただけの“瞳に映る事の無い現象の知覚”に過ぎなかったのだ。
 眼で見ていないのだから、眼が眩まないというのも道理だ。
「剣鬼山下に対抗しようというのだ。どれだけの物を用意したとて、十分とは言えないだろう」
 そういって剣を構え直す百鬼に対して、山下はただ肩を揺らすことで答えた。
「……神に感謝せねばならぬな」
 一瞬顔を伏せ口許に笑みを浮かべると、すぐさま表情を殺し、きっと百鬼の眼を睨む。
「人である事を捨て、鬼と化したこの私に、剣士としての喜びを再認識させてくれた事を。身も心も打ち震わす相手と、最後に出会わせてくれた事を!」
「最後?」
 その言葉を訝る百鬼とは対照的に、山下は刀を力強く振るう。
 最早一切の迷いも無いと言わんばかりに。
 一欠片の悔いも無いと言わんばかりに。
「さあ、決着をつけようぞ、一青百鬼!」
 凄まじく速い踏み込みで、瞬時に距離を詰めながら、山下の剣が繰り出される。
 もはや言葉の意味を悠長に考えている暇などはない。百鬼も全霊の剣を以て、山下の剣に応えるのみ。
 一合、二合と互いの剣が打ち合わせられる。
 その度に四次元の閃光が渦巻き、両者の体力をみるみる内に奪って行く。
 無理も無い。互いに四次元方向の肉体を削り合っているも同然の戦いなのだ。
 剣を振るう度に己の身体を擦り減らし、剣を打ち付け合う度に互いの精神を崩し合うのだ。
 達人の戦いは一瞬と言うが、互いに達人であるが故、致命打を与える事が出来ずにこのような消耗戦になっていたのだ。
 互いに互いの隙を狙い斬撃を放つも、致命の一撃を許さず、勝負は拮抗を保っていた。
 そんな中で百鬼は、山下の僅かな焦りを見逃さなかった。
 素早いが大振りで軌道の読みやすい一撃。
 高確率で山下の誘いであるだろうが、百鬼はあえてそれに乗り、真正面から受けた。
 力比べならば自分に分があると踏んだのだ。
 幾度目かの閃光を撒き散らしながら、両者の剣が激突する。
 鍔迫り合いの形になり、両者の動きが止まった。
 見れば双方共に全身が汗だくになっている。相当な疲労を溜め込んでいることは容易に見て取れた。
「少し名残惜しいが……そろそろ終りにしよう」
 そう、それが山下焔群の狙いだ。
 限界近い体力を此処で使い切る訳にはいかないのだろう。幾分かの余力がある内に百鬼との決着を付けたいのだ。
 互いに力を込め合っている刃が離れた時、二人の鬼の戦いは幕を引く。
「剣士としての時間は終わりか?」
 百鬼の言葉に、山下はふっと目を細める。
「そうだ。此処からは復讐鬼の時間だ……だからっ!」
 瞬間、両者は強く剣を押し付け合い、反動で互いの身体が離れた。
 同時に、二本の刀が閃く。
「我が大義の贄となれ。一青ォォッ!!」
「うおおぉっっ!!」

 迅雷の剣撃が交差し、激突する。
 そして…… 

<<戻る<<

目次へ

>>進む>>