Dimension Force

〜神剣の担い手〜

12

 その日も照りつける太陽に肌を焦がされる程の夏日であった。
 流れ出る汗を手拭いで拭き取りながら、一青百鬼は目の前の門戸が開かれるときを待っていた。
 彼が立っているのは、日本建築の豪邸前である。右を見ても左を見ても、端が何処なのか良くわからないほどに広大な敷地を囲う高い塀しか見えない。そして正面には、見上げるほどに立派な造りの門が聳えていた。
 思わず時代劇の武家屋敷にやって来てしまったのではないかと錯覚を覚えるほどだ。


 金剛丸を受け取ったあと、一青百鬼、阿傍閻、雪峰繁浪(ゆきみね しげろう)の三名は、今後の展望について話し合っていた。
 というのも、この先山下焔群をどのようにして見つけ出すかという問題が残されているからだ。
 相手が本当に陸軍将兵である山下焔群だとして、この時代の捜査の網から逃れ続けることなど不可能に思える。だが、現に彼はこれまで捜査当局に足取りを捕まれることなく潜伏を続けているのだ。先日の如く運良く発見できる可能性は殆どないと思って間違いない。
 そしてそれ以上に、三人は理解しがたい疑問を抱えていた。
 即ち、六十年も前に死んだ筈の男がどうやって、そして何のために現代に蘇ったのかという謎である。
「死人が蘇るという話はあちらこちらにありますが、実際に直面することになろうとは……夢にも思いませんでした」
「山下焔群本人とは限っていませんけれどね。もしかしたら名を騙る模倣犯……っていうのかは分からないけど。だとしたら、山下焔群って名を名乗るだけの意味があるとも考えられますよね」
「どちらにせよ、山下焔群についてもう少し調べて見なければならないという事でしょう」
 百鬼と閻はそう確認し合い、うんうんと頷き合った。そして唯一、山下焔群に関する情報を持っている雪峰へと視線を配した。
「どっちにしろ今は情報がなさ過ぎて何にも出来ねぇだろう。奴さんの目的の一つでも判らん限りは、こっちから動くための目安すら見えてこねぇからな」
 俺に聞くなと言わんばかりに、雪峰は腕を組んでそう言い放った。
「もっとも、山下焔群について調べる必要があるってのはその通りだろうがな。なんか手がかりになりそうな事とか言ってなかったのか?」
 逆に問い返された百鬼は、先日の記憶を手繰った。
「確か……」
 それは百鬼が彼らの前に姿を現せる直前の事だ。

 ――俺達には、大事な目的が有るってことを、忘れないでくれよな――
 ――約束の日まで、後僅かだ。一週間我慢してくれりゃ良いんだ。そうしたら、アンタの願いも叶う……――

 国綱と呼ばれていた少年が山下焔群へ向けた言葉だ。
「一週間後、彼らにとって何か重要な事があるらしい」
「何かって?」
「それは……」
 百鬼は言葉を詰まらせる。自身も言葉以上の意味を知らないのだ。
 気まずい沈黙が場の空気を包み込んだ。
 まるで「コイツ使えないな」と思われているような気がして、百鬼は非常に居心地が悪い思いをしていた。
「まあ、とにかくだ」
 そこに助け舟を出したのは雪峰である。
「山下焔群を直接調べることは出来ねぇが、山下焔群と関わりの深い人物なら心当たりがある」
「え?」
「ウチが山下の部隊に刀を卸していたって話をしただろう? そのときの部隊員だった人に心当たりがある……まあ、公には秘密ってことになってるんだが、当たってみる価値はあるだろう」
 ニヤリと薄い笑みを浮かべて、雪峰は出されていた冷茶に手を伸ばし、ずっと一啜りした。
 眉根を寄せた様子から見て取るに、すっかり温くなっていたのだろう。雪峰はすぐに湯飲みをコースターに戻した。


 インターホンに向けて名乗りを上げ、用向きを伝えた百鬼は、少々お待ちくださいと言われたまま数分間、門の前で待たされた。
「お待たせいたしました。どうぞ一青さん、お上がりになってください」
 和服姿の女性が、巨大門の横にすえつけられた小さな扉から姿を現せ、百鬼を招きいれた。
「ご無沙汰しております。先生はお変わりありませんか?」
「ええ、父も相変わらず元気過ぎて……逆にこっちが弱ってしまうほどですわ」
 口元に手を当て、女性は上品そうに笑った。
 雪峰に紹介された“山下焔群と関係がありそうな人物”は、百鬼自身にとっても交流がある人物であった。勿論で迎えてくれた女性とも、数回の面識があった。

 客間に通された百鬼は、上座に座る老体を前に深々と頭を垂れた。
 痩せ細った老体に、分厚い眼鏡。髪の毛も殆ど残ってはいないが、全身に満ち溢れる覇気が、老いというものを感じさせない。不思議な老人である。
「ご無沙汰しております。先生」
「うむ。久しぶりだね一青君」
 先生と呼ばれた老人は、厳めしい顔をくしゃっと歪ませて破顔一笑した。
 彼こそが、現代剣道業界の第一人者といわれている達人、大野晋太郎その人である。 

 

13

 大野晋太郎という人物を語るのに、そう多くの言葉は必要無い。
 戦後間もなくから剣道業界に貢献し続ける達人。剣の道の頂点に立つ人間の一人だ。
 審査会の審査員として人前に姿を現すことが多いが、彼が公式の試合で剣を振るったことは、実は一度も無い。
 と言うのも、大野晋太郎という人物は、正式には剣道家とは言えない立場の人間だからだ。にも関わらず、彼が剣の達人と認められているのには、歴とした理由がある。
 大野晋太郎は、一青百鬼らと同じディメンションフォースを持つ人物なのである。
 ディメンションフォースを持つ者は、スポーツ選手としての活動を認められていない。何故なら、スポーツは己の肉体のみを駆使して競い合うものだからだ。
ディメンションフォースは全ての人間が持ち得る能力とは言えず、一部の能力者はそれによって、己の身体能力を飛躍的に向上させることさえ出来る。
 故に、その詳細な能力の性質はさておき、ディメンションフォースを持つ者は公式の大会に出場することが認められないのだ。
 尤も、スポーツに携わること自体を禁止されている訳ではなく、トレーナーや審査員等、舞台の裏側で業界を支えようと活動を続ける能力者たちも多く存在する。
 大野晋太郎もまた、そのような人物の一人であった。

「前に君と会ったのは……」
「昨年末、神宮の武道場ででしたね」
 巨大な木を切り抜いた立派なテーブルを挟み、両者は向かい合っていた。
 透明なグラスになみなみと注がれた麦茶に手を伸ばしながら大野は百鬼に問い掛け、百鬼はすぐさま、しかし大野の言葉を遮らないタイミングで返答する。
「おお、そうだったそうだった。都内の剣道少年達の前で、練習試合を披露したんだったな」
 公式戦に出られない大野にとっては、そういったイベントでしか、存分に剣を振るう機会が無いのだ。
 たまの晴れ舞台を思い返し、大野は楽しそうに面打ちのジェスチャーを見せた。歳老いて尚、彼は一介の剣士であるのだろう。
 百鬼もそんな達人の無邪気な笑顔に頬を緩ませる。
「相変わらず、お見事な剣捌きでしたね。子供達のみならず、自分も思わず見とれてしまいました」
「何を言っておるのかね。若くて力もある君なら、こんな老いぼれ一捻りじゃろう」
 百鬼の言葉に余程気をよくしたのか、大野はガハハと豪快に笑いながら、逆に百鬼を持ち上げる。
 勿論百鬼もそこで付け上がる程愚かではない。
「何をおっしゃいます。先生の手にかかれば、自分など赤子同然でしょう」
「またまた、確かに君の剣はクセが強いが一筋縄では行かぬ。常に裏の裏をついて来る匠の剣だ。そんな若者が力だけなどと言ってしまったら、最近の連中は力も技も持ち合わせちゃおらん事になってしまうわ」
「いえ、本当に自分などまだまだ未熟です。つい先日も、手酷くやられてしまったばかりです」
「……ほう?」
 その一言が、大野の目付きを変えた。
「君ほどの男が大敗を喫したと?」
「ええ。ハンデがあったにも関わらず、手も足も出せませんでした」
 百鬼は強い。
 一般には知られていないその実力も、同種の力を持っていた大野は正しく理解している。
 恵まれた体格に、野山を駆け回る事で幼少の時分より鍛え上げられてきた野性的な嗅覚。そして常識に囚われない縦横無尽の剣技。それら全てを兼ね備えた百鬼が弱い筈が無いのだ。
 故に、その百鬼を完膚なきまでに打ち負かせた者が居るという事に、大野は驚きを隠せなかった。
「しかしそんな使い手がいたかの?」
 大野は顎をさすりながら記憶にある剣士達を次々に想起する。が、百鬼をコテンパンにするほど圧倒的な者は思い当たらなかった。
「先生なら、もしかするとご存知かも知れませんね」
 百鬼の言葉にはてと首を傾げた大野だが、続けて放たれた言葉を耳にした瞬間、彼は激しい衝撃と共に全ての言葉を飲み込んだ。

「相手は……山下焔群と言う男です」 

 

14

 その名を口にした瞬間、大野の表情が一転し、睨み付けるかのような目付きで百鬼を見据えた。
 しばしの沈黙が訪れ、二人の話し声で聞こえなかった蝉時雨が、こんなにも大音声で鳴り響いていたのかと気付かされる。
 よく冷房が効いた部屋であるが、いつしか大野の頬には一筋の汗が伝っていた。
 百鬼を注意深く見詰めながら、大野は汗をかいた麦茶のグラスへと手を伸ばし、しかしその視線は百鬼から一瞬たりと逸らす事なく口をつける。
 コトと小さな音と共にグラスが置かれると、大野は唸るように低い声で、百鬼が口にした名前を復唱した。
「山下……焔群?」
「ええ。先生はご存知ありませんか?」
 かまをかけていると言う訳ではない。大野が戦時中、少年兵として従軍していたのは有名な話であるが、その所属部隊はこれまで明かされてはいなかった。
 大野がディメンションフォースを持っているという事は幼少の頃から周知であったし、幼い時分から剣術を修めていたという事も広く知られていた。
 ディメンションフォースを持つ剣士を中心に構成されたと言う、山下焔群の部隊員であった可能性が極めて高い。
 故に、一青百鬼は確信を持って。しかし直接的な表現は避けて確かめたのだ。
「……知らんな」
 大野は否定した。
 恐らくは、百鬼が自らの秘密……即ち、現在の法に照らし合わせれば、世界的違法組織であった山下焔群の部隊に所属していたと言う事実を暴きに来たのだと思ったのだろう。
 剣道業界の重鎮として、これまでに築き上げて来た地位を失うかも知れない。誰もが敬う剣の達人から、一転して今度は戦犯だ。認められる筈も無いだろう。
 しかし、百鬼は大野の否定を無視して、本題を切り出す。
「先生は、最近頻発している通り魔事件の事はご存知ですか?」
「は? ……あ、ああ」
 突然の話題転換に大野は虚を突かれ、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
 明鏡止水の精神を持つ剣の達人とは思えぬ狼狽振りであるが、それ程までに、真実を暴かれる事は恐怖なのだろう。
「先日、その犯人と思しき男と立ち合ったのですが……その男が山下焔群と名乗ったのです」
「馬鹿な!?」
 思わず腰を浮かせかけ、大野は慌てて咳ばらいをした。
「で、では君が敗れた男と言うのも?」
「その男です」
 大野の問いに答え、そして百鬼は姿勢を正し、質問を繰り返した。
「山下焔群とは、一体どのような男だったのでしょうか? 何故六十年もの時を経て現代に甦り、このような凶行を繰り返しているのか」

 其処まで聞いた大野は漸く百鬼から視線を外すと、自分の手元に目を落としたきり黙り込んだ。
 時間にすればほんの数秒だろう。だが、その僅かな時さえ百鬼には……そして恐らく、大野にはそれ以上に長く感じられたことだろう。
 深い沈黙を破ったのは、麦茶に浮かんだ氷が溶け、響かせたカランという澄んだ音だった。
「私は……どうなるのだ?」
 大野は極端に簡略化した言葉を口にした。
「この件に関しましては、神社庁内で秘密裏に処理せよと、統理からの通達がありました。こちらでお伺いした証言も、一切外部に漏洩することはございません」
 大野が心配しているであろう事を汲んで、百鬼が答える。そしてそれを受けた大野は、深い深い溜息をついた。
 それは安堵の表れだったのか。それとも、自らの肩に圧し掛かったままの重荷から解放される事が出来なかった失望によるものだったのか。百鬼には判断がつかなかった。
 再び視線を上げた大野は、真っ直ぐに百鬼の眼を見据え、ゆっくりと口を開く。
「帝国陸軍には、山下特装旅団という特殊部隊があった。その部隊は、ディメンションフォースを用いる事で、近代兵器さえも上回る攻撃力を備えた、ゲリラ戦闘用の部隊だ。その部隊を率いていたのが山下焔群帝国陸軍大佐……いや、帝国陸軍少将であり、剣鬼の異名を持つ男だ」 

15

「山下焔群という人物は大層な愛国主義者でな。七生報国の精神を持つ、真の忠臣と呼ぶに相応しい人物だった」
 大野は観念したようにふっと視線を落としたが、次の瞬間には百鬼の眼を真正面から見据えて語り始めていた。
「親天皇派としても知られていて、誰よりこの日本という国を想い、剣を振るっていた人物だ」
 当時の山下の姿を思い出しているのだろうか、大野の瞳からは僅かにだが、憧憬の表情が窺えた。剣の達人であり、昭和の剣聖と並ぶであろうと評価される男、大野晋太郎が憧れた人物。今の言葉で表現するなら、さぞやカリスマに溢れた人物だったのだろう。
「……そのような人物が、何故今回のような凶行を?」
 百鬼の率直な問いに、大野は表情を曇らせる。
 再び手元のグラスに視線を落とすと、それを両手で弄び始めた。
 カラカラとグラスの中で回転する氷の音を聞きながら、百鬼はじっと待った。
「……あまり愉快な話ではないぞ?」
 上目使い気味に百鬼を見遣りながら、大野が呟いた。
 無言で、しかし真っ直ぐな瞳で大野の視線を受け止めながら、百鬼は深く頷く。
 例え大野の気が進まないとしても、一青百鬼にはそれを確かめる必要があった。第一、犠牲者が何人も出ている事件である。何としてでも事の真相を掴み、山下を捕らえなければならない。その為には耳触りの悪い話を避けてなどいられないのだ。
 そんな意思を百鬼の双眸から読み取ったのか、大野は溜息をつき、そして背筋を伸ばした。
「山下特装旅団は先にも言った通り、白兵戦に特化した陸戦部隊だった。その戦力は一個旅団にして機工師団に匹敵するとすら言われており、日本軍における隠し刀として多くの戦果を上げてきた」
 そこで大野は一瞬だけ眼を伏せる。
「あの戦い……沖縄上陸戦も、我々が参戦していれば持ち堪える事が出来た筈なのだ……」
 大野の膝に置かれていた手が握られる。微かにだが、その手が震えているようにも見える。
「しかし、大本営から出撃せよとの命令が下りなかったのだ。来たる本土決戦に備え、山下特装旅団は温存するというのが本営の決定だった。我々が苛立ちを募らせるばかりで剣を持て余している間も、沖縄の戦況は悪化する一方だった。山下隊長も幾度と無く大本営に出撃の許可を求めたが、首脳部は首を縦には振らなかった……だが、沖縄からの度重なる増援の要請に、漸く出撃許可が下りたのだ。我々は急いで広島訓練場から出陣したのだが、その時……そう、その時悲劇が起こったのだ。史上最悪の悲劇がな」
「悲劇……?」
 問い返す百鬼の胸に、一抹の不安が過ぎった。
 広島といえば、戦時中は軍の重要施設が多く存在する軍都であった。日清戦争で大本営として使われ、一時的に首都機能が移転された事もあり、以降広島は陸軍の施設が多く置かれるようになった。
 例えば広島城には陸軍第五師団司令部が置かれていたし、宇品港は陸軍の船舶司令部だった。三菱重工や東洋工業をはじめとする軍需工場の数も数十にのぼった。
 だからこそだろう。人類史上に残る、あの攻撃が行われたのだ。
「我々が宇品から出立したその直後だ。我等が命を賭して護るべきものの姿を眼に焼き付けておけと……隊長が仰ったので、俺たちは」
 大野はぐっと息を飲むように言葉を詰まらせた。目頭を押さえ、小さくすまんと呟き、二度三度と頭を振る。
「護るべきお国の姿を焼き付けようとする俺たちの目の前で……広島という街が、一瞬で消し飛んだのだ」
「まさか……」
 うっすらと涙を浮かべる大野に何と声をかけるべきなのか、百鬼は相応しい言葉を見つける事ができなかった。
 それでも、湿り切った声で大野は続けた。
「我々の船も爆風で転覆。船体の破損に巻き込まれ、多くの兵が命を落とした。生き残った者も、身心に大きな傷を負ってしまった。俺は幸運にも五体満足だったが、隊長は左腕と……広島に残した奥方を亡くされたのだ」 

 

16

「海から何とか這い上がると、いつの間にか空は黒く塗り潰されていた。黒い雨が降り注ぎ、自分達は地獄に堕ちてしまったのだと錯覚したよ」
 小さく溜息をつき、大野はソファーの背もたれに身を沈めた。
 眼を閉じて、深い息を吐き瞼を開く。天井を見詰めるその姿勢は涙を零さない為だろうか。
「……街はひどい有様だった。建物は悉くが壊れ、そこらじゅうに遺体が転がっていた。或るものは立ったまま炭化しており、或るものは全身の皮膚が剥がれ、辛うじて腰で繋がっているという有様だった。生きている者も、目玉が飛び出している者、半身が炭になっている者、腹から内臓がはみ出している者……本当に地獄かと思ったよ」
 百鬼も広島原爆の話は聞き及んでいた。その惨状は伝え聞いただけでも胸が痛む思いだが、大野はその眼で見てきたのだ。一体どれほどの絶望を味わった事だろう。
「それは山下焔群も一緒に?」
「勿論だ。隊長も酷い傷を負っていたにも関わらず、急いで市中へと戻った……そこで、見てしまったのだ」
「……一体何を?」
 詰め寄る百鬼に、大野は仄暗い視線を向けた。
 その眼に射抜かれ、百鬼は背筋が凍るような感覚に襲われる。
「灰になった……」
 大野の声が冷たく響く。まるで、心を殺さなければその言葉を口にすることが出来ないかのように。
「自分の奥方の姿をだ」
「……ッ!」
「その時から隊長は変わってしまった。己の信じる正義の為に戦う勇士が、米国への憎しみを糧に生きる復讐鬼へと」

 それは西暦1945年八月六日の事である。第二次世界大戦末期に、戦争当事国である日本の広島県広島市へと、俗にヒロシマ原爆と呼ばれる兵器が投下された。
 たった一発の兵器により、当時の広島市の人口三十五万人のうち約十四万人が死亡したと報告されており、史上最悪の無差別破壊兵器として今なお語り継がれている。
戦争に疲弊した国民達は、その圧倒的な暴力の前に打ちひしがれる他はなかった。
大野が言う通り、原爆による被害は他に類を見ないほどに甚大であり、戦争の悲惨さ、恐ろしさを如実に物語る記録として、人類の記憶に深く刻み込まれている。
勿論その話は百鬼も知るところである……いや、地球上に生きる全ての人間が知って居るべき事。知って居なければならない事なのであろう。
戦後六十年が経過した今日に至っても、被爆者やその家族は長い苦しみにいま尚耐え続けている。……いや、肉体だけではない。その惨状を目の当たりにした全ての人間は、心にも深い悲しみや絶望を刻み込んだに違いなかった。

「結局、我々は何一つとして護ることは出来なかった。戦う事さえ出来ず、大切なものを一方的に奪われ、あまつさえそれをした相手に服従しろだ。認められる筈がない! 誰が許そうと、この自分が許しはしない! ……それが山下隊長の考えだった。俺も若かったからだろうな。その考えに同調し、連合軍の上陸時に最後の特攻をかけるつもりでいた……」
 ふっと、大野は自嘲気味に肩を竦めた。その姿に、覇気に満ちた剣の達人らしさは微塵も無い。あるのは戦いに疲れた老人の姿のみ。
「だが、天皇陛下によって派遣された兵によってそれも阻まれてしまった……隊長は酷く失望していたよ。誰よりも信じ、尊び続けた陛下に裏切られたのだと。怒りに、憎しみに打ち振るえる臣民を蔑ろにして、鬼畜米帝に尻尾を振る家畜にまで成り下がったかと」
「そんなことは……!」
 思わず割って入ろうとした百鬼を手で制しながら、大野は言葉を続ける。
「勿論天皇陛下は我が身可愛さに降伏した訳ではない。陛下は早くから和平申し入れを提言されていた。その時も自分達の命と引き換えにしてでも、国民を護ろうとして下さっていたのだ。だが、既に隊長にはそれさえも通じなかった。隊長の心は憎しみと絶望に支配されていて、米国に屈するくらいならばと……」
そう言うと、大野は静かに瞼を閉ざし、口を噤んだ。深い沈黙が流れるも、それ以上は百鬼も追及しようとはしなかった。
これ以上大野に話しをさせるのは酷と言うものだと考えたのだろう。
百鬼は深々と頭を下げ、静かに席をたった。

「そういえば」
 大野の屋敷を出る際、百鬼は無言で見送りに出て来てくれた大野に質問してみた。
「先生は国綱と呼ばれる人物に心当たりは有りませんか?」
 その問いに大野は一瞬きょとんとした表情を作った。一体何故その名が挙がったのか理解出来ないと言った様子だ。
「さて……鎌倉時代の刀工しか思い当たらんが、それが何か?」
「いえ……」
 百鬼は頭を振ると、大野に対して深々と頭を下げ、足早に屋敷を後にした。

 

17

「驚きですね。まさか隻腕という特徴まで一致するなんて……もう本当に同一人物としか思えなくなってきましたよ」
 明治神宮に戻った百鬼は、大野に聞いた話を閻にも話していた。
「それに、これで被害者が若者中心だったという事にも合点がいきますね」
「む、何故です?」
「被害に遭った若者は全員髪を染めていました。日本人の誇りを捨てて、アメリカ人の姿を真似るなんて言語道断!」
 首を傾げる百鬼に、閻はそのしなやかな人差し指をびしっと突き付けて言った。
「……ってことですよ」
「な、なるほど」
 閻の理論に完全に納得させられ、百鬼は改めて閻の存在の有り難みを痛感した。
 百鬼は物心ついた時から剣の道一筋に生きてきた事もあり、自分に学が無いことを度々コンプレックスに感じたりもしていた。実際今回の事件に関しても、閻がいなければ適当にパトロールをする事位しか出来ていなかっただろう。
自分の代わりに頭を使ってくれる閻がいるからこそ、百鬼は心置きなく肉体労働に専念できるのだ。
「彼らの目的は……今週末に、一体何が起こると言うのでしょうか?」
 一先ずは山下が本物だと仮定して、では国綱という少年の言っていた目的とは一体何なのか。当面の謎は、いよいよその一点に絞られた。
「それなら、今の話で大体見当がつきました」
 そう言うと、閻は新聞紙を百鬼の前に広げて見せた。
 紙面にあるのは、週末に来日すると報道されている、米国外相の顔写真であった。
「週末……っていうかもう明後日ですけどね。今のアメリカ外務大臣は親日家として有名で、今回は大臣たっての希望で天皇陛下との会見も決まっています」
 その話は百鬼も聞き及んでいた。今度のアメリカ外相はかなりの日本通で、大臣就任以前は年に数回も来日していたという。日米関係をより強固にして行くのにはもってこいのチャンスだと、日本国内ではアメリカ新大統領就任以上に盛り上がったものだ。
「では、山下はアメリカ外相を襲撃しようとしていると言う事ですか? そんな事をして一体何になると言うのですか」
 山下の目的がさっぱり読めず、百鬼は右へ左へと首を傾ぐ。
「山下焔群は自分からすべてを奪ったアメリカを憎んで居ます。そしてそのアメリカに降伏し、属国に成り下がってしまった日本も」
「!」
 閻の言葉に、百鬼は息を飲んだ。
 山下がアメリカを怨んでいるであろう事は火を見るより明らかであったが、憎むべき仇に尻尾を振るような現在の日本も、彼にとっては敵なのかもしれない。
「という事は……山下焔群の目的はアメリカ外務大臣を襲撃して、日米双方に打撃を与えようという事ですか」
 腕を組み成る程と頷く百鬼に、閻は首を横に振って答える。
「恐らくですが、それだけでは無いでしょう。山下焔群にとって、日米に政治的な打撃を与えるだけが目的とは思えません……例えば」
「例えば?」
 考えながらという様子で話す閻に、百鬼はすかさず合いの手を入れる。
「例えば、日米国交を断絶させたい。とか」
 成る程、今日の日本は在日米軍の存在により護られているという部分がある。アメリカの存在が無ければ、日本を仮想敵国としている極東アジアの国々から、今とは比べものにならない程の挑発的行動……最悪の場合は直接的な攻撃を受ける事も考えられる。
「日本人は自国を護るために自ら武装し、戦わなくてはならない。その為には“昔のような日本”に戻る必要が出て来るという訳ですね」
「そう、憎き米帝と縁を切るついでに、自身が信じて戦った大日本帝国を取り戻す」
 今度は閻も首肯して百鬼の言葉を補足した。
「まさか……また戦争でも起こさせようというのか、山下焔群は!」
 核の恐ろしさを目の当たりにした筈の山下焔群が、再び戦乱の時代まで日本の時を巻き戻そうとしている。百鬼にはそれが許せなかった。誰よりも戦争の悲惨さを知っている筈の男が、それを繰り返そうと言うのだ。
「統理に報告してまいります。外相殿の護衛を強化して頂かねば」
 勢いよく立ち上がり、百鬼は言った。当然自分も護衛に加わるつもりである。
 閻も鋭く首肯すると、同じくサッと立ち上がる。
 アメリカ外務大臣の来日は明日の夕方。すぐに連絡して貰わねばならないだろう。 

 

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