Dimension Force

〜異元対偶〜

1

 春の暮れとでも言えば良いのだろうか。それとも、桜の花弁も散りはじめ、青葉が芽吹き出す季節と言うべきか?
 それは梅雨の訪れにはまだ暫く掛かりそうな、五月末の昼下がりだった。
 月曜日の講義は午前中で終わってしまうため、昼過ぎからはあちこちの神社仏閣に赴き、交霊術士としての修行に励む事が習慣になっていた俺は、その日も都内のお寺に伺うため、國學院のキャンパスから程近いバス停へと向かっていた。

「やっぱり良いと思うんだけどなぁ……」
 つい先日、十九の誕生日を迎えたこのかにプレゼントしたものと同じ、ザ・スミスのアルバムを聴きながら、俺は一人ごちた。
 洋楽好きだと言うと、知人からはイメージに合わないと言われるが、やはり良いものは良いと思う。人や物を上辺だけのイメージで決め付け、それ自体の善し悪しを判断する事を放棄するのは勿体ない事だ。
 そんな訳で、このかにもこのイギリスのロックバンドのCDを贈ったのだ。
 ……聞いている形跡は全く無いが。

「ん、あれは」
 バス停に差し掛かると、一組のカップルが視界に入った。仲良く手を繋いではいるが、不思議な事に、二人とも無表情で視線を正面に固定している。
 白昼堂々手を繋いでいる程に仲の良い二人ならば、向き合って会話でもしているのが自然であろう。
 だが、その二人にはそんな様子は微塵も無く、お互いに見ず知らずの他人のような無関心さで、しかし手だけはしっかりと繋いで居るのだ。
 妙なカップルだな……そう思いながら二人の隣に並ぼうと近付いて、俺は初めてカップルの女性のほうに見覚えがあることに気付いた。
「前森さん?」
 肩まで届く髪を明るい茶色に染めた彼女は前森奈々という。大学の同級生で、幾つか同じ講義を受けてもいる。
 大学生にとって、およそ意味があるとも思えないシステムだが、一応存在するクラスも、俺と前森さんは一緒だった。
「うおっ、原田くん!?」
 俺の呼び掛けに気付いた前森さんは、少し大袈裟に驚いて見せた。
 恋人は居ないし、作る気も無いと公言して憚らない彼女が、男性と仲良く手を繋いでいる現場を目撃されたのだから、驚き焦るのも無理は無いだろう。
「前森さん、今日はもう帰り?」
「うん、月曜は午前の講義しかとって無いし……ってか原田くん家ってコッチだったの?」
「いや、今日は寄る所があるから偶々……で、そっちはどちらさん?」
 恐らく作らないと言い張っていた恋人との待ち合わせに、普段とは違うバス停を使ったのだろう。俺がそれを見つけたのは偶然に過ぎないが、これは千載一遇の好機と思い、秘密をほじくり返してやるつもりで手奥の彼氏を覗き込みながら聞いた。
「え?」
 間の抜けた声を出して、前森さんは後ろ……つまり、彼氏の方へ振り返る。
 彼氏の方は未だに直立不動で、視線も正面に固定されたままだったが、振り返った前森さんの顔が彼氏の顔に接触しそうな程に近付いていた。
 やはり浮かれ気分になって、無意識の内に……かは知らないが……誰かに見せ付けてやりたくなったのかと俺は思った。
 ……思ったのだが。
「誰か居た?」
 俺の方へと向き直った前森さんは、そんな言葉を放ったのだ。
「えっ?」

俺は我が耳を疑いながらも、殆ど反射的に、もう一度前森さんの奥に立つ男性を除き込んだ。
そして、俺は気付いたのだ。

前森さんの手を握り絞めたまま微動だにしない男が、本来ならば其処にあるはずの無い存在だという事に。

 

 

2

「へえ〜、珍しい事もあるんですねぇ」
 ぽかんとした表情のまま、このかはそんな感想を述べた。
 前森さんの手を握っていた亡霊と思しき存在は、彼女がバスに乗り込み、その場から離れた途端、朝霧のように掠れて消えてしまった。
 確かに、他人よりはこう言った心霊現象に通じているが、俺自身にはこのかのように四次元に干渉する能力は無い。一体どうしたものかと悩んでみても、どうしようも無いというのが詰まるところであった。
 前森さんは怪訝そうな視線を残して帰ってしまったし、霊の方は文字通り、影も形も遺さず、綺麗さっぱりと消えてしまった。
 一人取り残された俺は途方に暮れ、とぼとぼと明治神宮へと踵を返したのだった。

 このかが帰ったのは、午後二時を回った頃だ。
 入学当初は電車で一駅移動するのもおおわらわだったこのかも、流石に最近は一人で通学出来るようになっていた。
 俺はこのかに話があると声を掛け、今こうして向かい合っているという訳だ。
「それで……その亡霊さんが何か悪さをしてはるんですか?」
 このかはそう尋ね、お茶受けの東京バナナを頬張った。
「いや、それは何とも言えないんだが……」
 俺は二の句を告げられず、言い淀んだ。
 奇妙な事例である事は間違いないのだが、少なくとも現状においては、その亡霊は何もしていないのだ。
 強いて言うなら、前森さんの手を握っていたというくらいだが、それで幽霊をストーカー扱いするのは無理がある。

第一それを唱えるならば、亡霊が前森さんに対して、恋愛感情を抱いているという前提条件が必要だ。
「そういえば、そんな映画がありましたねぇ」
 ぽんと手を打ち、このかが言った。
 米国は一般市民の常識レベルとして、神霊の存在次元に関する理解が低いのだが、それはアメリカ大陸には神と呼べる存在が少なかったためであると言われている。インディアンの大地信仰くらいのものなのではないだろうか?
 ともあれ、そんな理由からも、ハリウッド系の映画作品などには感情表現豊かな幽霊などがちょくちょく顔を見せるのだろう。まあ、お国柄と言う奴だ。
「何にせよ、亡霊にそんな感情があるとも思えないな」
 ゴーストよりもキャスパーが好きだった俺は、事もなげに言った。
「人間と神霊の恋物語言うのも、探せば結構あるもんですよ?」
「しかしなぁ……神霊というには、随分と無表情だったし」
 そう言って俺は、あの亡霊の顔を思い返す。無表情に正面を見詰めるその姿は、まるで蝋人形のように無機的で、命を持たない者特有の不気味さを漂わせていた。
 其処で俺は、その亡霊の外見的特徴を何一つ覚えていない事に気が付いた。
 そもそも件の亡霊に、取り立てて挙げる程の外見的特徴が無かったのかも知れないのだが、とにかく、亡霊の無表情さにばかり気を取られていた俺は、それ以上の情報を得ることが出来て居なかったという訳だ。
「ほんなら、今から行ってみましょうか」
 そう言ってこのかはちゃぶ台に手を衝き、よいしょと立ち上がった。
 男がよいしょなんて言うと、やれ親父臭いだなんだと言われるのに対し、女の子がよいしょと掛け声をかけると、妙にかわいいのは何でだろう。
 そんな実にどうでもよい事を考えながら、俺もこのかに続けて腰を上げた。
「そういえば直弥さん」
「うん?」
 立ち上がったこのかが、ふと気付いたという様子で言った。
「今日は平河さんに行く言うてませんでしたっけ?」
 そう言われ、俺はあっと声を上げた。
 件の霊に気を取られて、昼過ぎに平河天満宮に伺う約束をしていたことを、すっかり忘れていたのだ。

 

 

3

 予定をすっぽかしてしまった事に対する謝罪の電話を入れると、平河天満宮の方は、そんなに気にしなくて良いと言って下さった。だが、俺の気持ちは依然として沈んだままだった。同行してくれる予定だった神社庁の先輩は、融通の利かないタイプの人間で、後日みっちり絞られる事になるのが目に見えていたからだ。
「はあ……」
 こう言っては難だが、正直気が重い。
 意図せず漏らした溜息から、俺の心情を察したのだろう。このかが苦笑を浮かべる。
「まあまあ、気ぃを落としてても仕方ないですよ。やっちゃったもんはどうしようも無いですから」
 フォローのつもりだろうが、全くフォローにはなっていなかった。
 俺は「ああ」と生返事を返し、足を速める。問題のバス停は、もう目の前だ。

「此処がそうですか?」
 バス停に並んで立ち、このかがそう問い掛けて来た。
「そう。それで丁度今このかが立って居るところに、例の亡霊が居た」
 頷きながら、俺はそう付け加えた。
 普通そんな事を言われれば、その場所から身体を外そうとすると思うのだが、このかは辺りを見回しながら、へぇ〜……などと気の抜けた声を出していた。
「……何にも居てませんね?」
 俺の方へと向き直り、このかはそう言った。
 このかの言う通り、その場には亡霊どころか、通行人の一人さえも居りはしなかった。
 霊は俺達が生活する三次元空間とは異なる、第四の次元軸に存在している。その為、今姿が確認できないからといって、存在していないという証拠にはならない。しかし、俺とこのかが暫くその場を検分してみても、結局それらしい存在を感知することは出来なかった。
 亡霊といったら、普通は一つ所に留まるものだ。特定の場所に留まっている亡霊を特に地縛霊と言うように、亡霊は浮動するものと考えられる事が多い。しかし、亡霊は空間に精神的作用が焼き付けられたものであるからして、基本的に動く事は少ない。
「直弥さんが見た言うんは、本当に亡霊だったんですか?」
「何だよ、俺が嘘をついてるって言うのか?」
 このかの言葉に、俺はついむきになって返してしまった。
「いや、そういう訳では無いんですけど……亡霊が影も形も残さずに消えるって言うのは、あんまり聞いた事が無いですから」
 困ったように言うこのかに、それでも俺は「間違いない」と言い張った。
 とは言え、段々自分の言葉に自信が持てなくなって来ていることも、また事実だった。
「まあ、今日はこれ以上調べても何も出て来なさそうだし……帰るか」
 亡霊と思しき男が見えたのは間違いない事だが、それが本当に間違いなく亡霊だったのか。本当に前森さんの手を握ろうとして其処に立って居たのか。
 結局何の答えも出ないまま、俺達は帰路へと着いた。
 今日は何だか、失敗続きのような気がする。テンションもだだ下がりだ。
「このか、無駄足踏ませて悪かったな」
 自分でも分かるほど、張りの無くなった声で、俺はこのかに詫びた。
 このかも俺の心情を察してか、苦笑しつつも「私は全然構いませんよ」と返してくれた。
「何かあってから動いたんじゃあ仕方ありませんからね。それに、私たちに分からない事でも、司様のお智恵を借りれば何か分かるかも知れませんし!」
 ぐっと握りこぶしを作り、このかはそう言った。
 今度のフォローは、胸に染みた。

「おい、このか! 伊勢の小僧!」
 では帰ろうという、正にその時。俺達二人に向けて不遜とも言える声が掛けられた。
 誰だかは分かっている。俺の事を未だに「伊勢の小僧」と呼ぶのは、今はもう一人……いや、一匹しか居ない。
「あら、オコジョさん」
 声の主に気付いたこのかが言った。
 俺達の視線の先に居たのは、猫より少し小さいくらいの、イタチであった。
 丸い顔に三角形のつぶらな瞳。全身を被う体毛は背中が茶色く、腹が白い。丸い耳と前後の足先、そしてしなやかな尾の先は黒い模様となっている……紛れも無いオコジョである。

 

 

4

「あらオコジョさん。どうしはったんですか?」
 このかがそう問いかけると、オコジョさんは彼女の身体によじ登り、肩に腰(?)を落ち着けた。
「おう。司様からの伝言だ」
 あの司様が遣いを寄越すとは、何か大事が起こったのだろうか。俺は無意識に身体を強張らせた。
「たぬきうどんが食べたいから、早く帰って来て作れ。だそうだ」
 俺はがっくりと肩を落とした。
「ほんなら、お買い物していかないけませんね……直弥さん」
 まんまと肩透かしを喰らった俺とは違い、このかは平然と納得し、そのまま俺に声をかけてきた。伏見稲荷ではこう言うことは日常茶飯事だったのだろうか?
「なんだ?」
「帰りにスーパーに寄ってもよろしいでしょうか?」
「え? ああ構わないけど、この辺にスーパーなんてあったかな?」

 たぬきうどんといえば、多くの人は揚げ玉をたっぷりと振り掛けたうどんを連想するだろうが、京都暮らしの長い司様の好物であるたぬきうどん並びにたぬきそばは、そういった物とは少々異なる。
 このかが司様にお出ししたのは刻んだ油揚げと薬味が載ったうどんで、それをさらに餡かけでとじてある。なるほど。美味しそうだ。
「伏見稲荷でも、大学の特別枠くらい用意していれば、わざわざ東京くんだりにまで来なくとも済んだんだがな。いただきます」
 東西での食文化の違いに対してか、それとも、東西の独立宗教法人の待遇の差に対してか。どちらかは分からないが、丼を前にした司様は、愚痴を漏らしつつも丁寧に手を合わせた。
 長い前髪を片手で除けながら、箸の先で掴み上げたうどんに息を吹きかけ、荒熱を取ったところでそれを口に運ぶ。
 太いうどんの麺は、司様の唇にうねりながらもちゅるりと吸い込まれた。
 そんなご様子にこのかと二人で見とれていたが、司様が満足そうに「美味いな」と仰ると、このかは嬉しそうに笑顔を作って見せた。

「司様、少しお知恵をお借りしたいのですが」
 司様に続けて、京風たぬきうどんに箸をつけながら切り出す。司様は小さく首を傾ぎ、沈黙した。話を聴いて下さるようだ。
 丼に箸を置き、俺は今日見た亡霊のこと。それをこのかと確認に行ってきたこと。そして其処で、何の手掛かりも掴めなかったことを司様に伝えた。
「こんな相手は今まで見たことがありません。司様は、そのような存在をご存知無いでしょうか?」
 俺の説明を静かに聴いていられた司様は、ふむと小さく唸ると、うどんを一口啜った。
「まず一つに……」
 稲紋の入った手ぬぐいで口許をふきながら、司様が言う。
「それは本当に亡霊であったのか?」
「間違いありません」
 自信が無い顔のままでは格好がつかない。半ば自棄になりながらも、俺ははっきりと言い切った。
「なるほど……」
 小さく、自分の中で確認するように頷いた司様は箸を置き、こう仰った。
「丑三つ時にはあやかしが出ると、昔から言われて居るが、それが何故なのかは知っているか?」
 突然の質問に、俺は怪談話でも始めるのかと大いに戸惑った。
「ええと……丑三つ時、つまり午前二時過ぎともなれば、昔では起きている人間はまず居ない。ですから、そんな時間に動くものがあれば、それは人ではなく……という事では無かったでしょうか?」
「正解……だが、交霊術士の答えではないな」
 一般人の解答だと指摘され、俺はむぅと息を詰まらせた。
「江戸時代まで日本の時間は十二支の刻で一日二十四時間を定めていた。同時に、昼を陽、夜を陰の気が巡ってくると考えていたのだ。陽の気は物事が盛んになる、発展するという意味で、陰の気は物事が衰える、退くという意味を持っている。丑三つの午前二時から二時半は、そうした陰の気が強く満ちてくる時間帯なのだと考えられていた。さらに、丑三つの時間は、方位に当て嵌めると艮(うしとら)の方位……何の方角だか、分かるか?」
 艮といえば、現代の言葉に置き換えると北東に当たる。北東といえば、それは……
「鬼門……ですね」
「そう、時が巡る度、目に映らないものが映る。それを人間は霊界の門が開き、鬼が現世へと現れるのだと考えた。消えたり現れたりするという事のヒントは、恐らく其処だな」
 其処まで言うと、司様は再度たぬきうどんへと箸を延ばした。
 俺とこのかには、司様の言わんとされている事が理解出来ず、ただただ顔を見合わせるばかりだった。

 

 

5

 結局、司様からあれ以上のヒントを頂く事は出来なかった。件の亡霊からは、早急な対処の必要性が認められなかったので、俺達の課題にするお心積もりなのだろう。
 前森さん本人に心当たりを聞いてみてはどうかというのは、このかの提案だったが、俺はどうにも気が進まずにいた。だってそうだろう。いきなり「昨日幽霊に手を握られていたよ」なんて、例え相手が神道関係の家柄出身であっても、なかなか言い出し辛いものだ。
 ちなみに前森さんの父君は、千葉のとある神社の禰宜だそうだ。だからと言って、四次元の目……俗に言う霊感があるかというと、全くそんな事は無いらしい。
(まあ、伊勢でも俺以降は目を持った人間が現れて居ないしな)
 そんな訳で、わざわざ不安にさせるような事をするものではないと、本人には内密に調査が開始されたのだった。
 時刻は午後零時半を回った所だ。俺とこのかは、再度問題のバス停に来ていた。昨日亡霊を見た時刻より若干早い。ちなみに講義はサボった。
「さて、俺の推理を聴いて貰えるか?」
 そう問い掛けると、このかは不満そうな顔を作って見せた。
「聞かんと言うても話すのでしょう? どうぞ仰って下さい」
 無理矢理講義をサボらせたのが悪かったのだろう、このかはご機嫌ななめの様子だった。後で甘いものでも食べさせて、機嫌を取るとしよう。
「司様の仰っていた艮の刻の話だが、あれは、第四方向の質量が、一定の周期毎に三次元。つまり俺達が現世と呼ぶ物質界に同調する事を言われていたのでは無いだろうか……と、思ったんだ」
 確かに。とこのかは頷いた。
「毎日決まった時間に現れる幽霊の話もありますしね」
 そして、そういえば以前ドラマで、毎日決まった時間にポルターガイストが起こる言う話がありましたね。と続けた。物理繋がりで上手い例を挙げたと思っているのだろう。このかはどや顔で俺の反応を待っていたが、取り敢えず無視して、俺は持論の披露を続ける。
「つまりここの亡霊は、特定のタイミングでのみ、俺達の眼に映る……振動する四次元存在なんじゃあ無いかって事だ」
 正直俺自信も、完全に理解出来ている訳ではない。しかし、色々考えた中では、これが一番理に適っている説明である事も確かだ。
「ちなみにこれは、横軸を時間で取った正弦波のグラフに例える事ができる」
「あぁ……司様がそないなこと言うてはりましたねぇ」
 遠い眼でこのかが回想しているのは、恐らく司様がもう一つだけ下さったヒント……正確には、司様が漏らせた「ヒント案」だったのかもしれない。それが「mx'' = kx」と言う物理法則の式だった。
 司様の口から、アルファベットの羅列が出た時のこのかの狼狽振りといったらなかった。
 目を白黒させていたこのかの顔を思い出し、思わず笑いを零しそうになったが、そんな事ばかりを敏感に察知したのか、このかがジト目で睨んできた。
 膨れっ面を作って見せては居るが、元々柔和な顔付きのこのかがやっても、全く恐くは無かった。むしろかわいい。
「えーっと……もうそろそろ時間かな」
 言いながら、俺はガードレールに腰掛ける。
 手の平でこのかに隣を勧めたが、服が汚れるからと断られた。女の子を立たせて自分は座る等という事は、当然出来ない。仕方無く二人でバス停に立ち尽くす事となった。

 少し時間を進めよう。
 時刻は午後一時を過ぎた頃。俺とこのかはバス停からほど近い、大型チェーンのレストランにいた。
「亡霊さんは定時出勤では無い言うことでしょうかねぇ?」
 餡蜜を口に運びながら、このかは言う。
 結論から言うと、亡霊は現れなかった。

 

 

6

「亡霊さんは定時出勤では無い言うことでしょうかねぇ?」
 このかはそう言いながら、白玉を口に運ぶ。
 あれからおよそ一時間、俺達はあの場所で亡霊の出現を待っていたのだが、予定の時刻を回っても亡霊は現れなかった。待てど暮らせどという程待っていた訳ではないが、流石にただ待つだけというのも疲れるものだ。このかの機嫌がこれ以上悪くならない内にと、俺達は場所を変えて会議に移った。
 腰を落ち着けたのは、現場を遠目に窺うことが出来る、大手チェーンレストランだ。その窓際の席に陣取り、取り敢えずこのかに好きなものを注文させた。
「よく考えて見れば、周期的といっても毎日現れるとは限らないんだよな」
 全くもって今更である。こんな事なら、来週の同じ時間に確認してから調査を始めればよかった。頬杖をつきながらぼんやりと現場を眺め、俺はそう思った。
 急いては事をし損じる、とはよく言ったものだ。
「あれ? 直弥さん、バス停になんや現れましたよ」
 お茶の入った水差しに手を伸ばしかけたときこのかが言った。俺は身を乗り出して目を凝らしたが、正直よく見えない。言われて見れば人影らしき物が見える気がする程度だ。
「……ここからじゃ判らないな」
「一人は歩いて来はったんですけど、もう一人はすうっとあの場所に浮かび上がって来るみたいな感じでしたよ」
 何も無い所から浮かび上がって来る人間など居まい。俺は咄嗟に立ち上がり……会計を済ませなければならないので、このかに先に行って貰った。
「意外と足速ぇな……」
 店を出たこのかは、みるみる内に小さくなって行った。

 そういえば、全力疾走したのは久し振りだ。俺がこのかの許にたどり着いたときには肺を絞り上げられるような感覚に捕われ、息も絶え絶えになっていた。
「直弥さん」
「ハア、ハア……ど、どうだった?」
 全身が酸素を欲しがっている。俺は顔を上げることも出来ないまま、短くこのかに問う。
「ええ、それが……」
 このかの少し申し訳なさそうな声に、やっとの思いで顔を上げると、ちょうど真横をバスが通り過ぎるところだった。
「…………」
 ついでに、ここはまだバス停では無かった。
「すみません、私が着く前にバスが来て乗ってかれてしまったのです」
 しゅんとしながらこのかが言う横で、俺はガードレールにもたれ掛かりながら息を整えていた。
「最初に来たんは女性で、その方はバスに乗って行かれましたのやけど。後に現れた方はやはり、そのまますうっと消えてしまいました」
 折角の手掛かりを逃してしまった。このかはそう思ったのだろうが、俺の中には、ある種の確信めいた答えが浮かび上がっていた。
「間違いない、昨日の亡霊だ……それから、ヤツは周期的に姿を現すんじゃ無い」
 えっとこのかは小さく声を上げる。
「何者かの出現にあわせて現れた亡霊。走り去ったバスの窓から見えた顔。俺達には反応せず、ある特定の人物にだけ引き寄せられている」
「えっと、つまりどういう事なのでしょう?」
 俺の言葉に困惑の表情を作りながら、このかが俺に問い掛けた。俺は真っすぐこのかと視線を合わせ、そして答える。
「バスの窓から前森さんの顔が見えた。そのバス停で乗ったのは彼女だ。つまり……」
「亡霊は時間では無く、彼女の存在が引き金となって現れる……?」
 このかが俺の言わんとすることを察して言葉を継ぎ、俺はそれに首肯した。
「どうやら、この亡霊は前森さんに何らかの関係があるみたいだな」
 第四方向に対する目を持たない者でも、稀に異次元の存在を目撃する事がある。
 例えば、その人物の亡くなった家族であったりする場合、亡霊の方から我々の存在する物質界に接近して来る場合があるのだ。
「前森さんの過去を調べる必要がありそうだな」
「何だか探偵小説みたいでワクワクしますね」
 そう言って、このかは漸く本日最初の笑顔を見せてくれた。
 不謹慎だとは思うが、俺も同じ気持ちだった。

 

 

 

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