Dimension Force

〜東の国の幼き魔女〜

イントロダクション

 不夜城都市東京を、色とりどりの街灯や電飾が飾り立てている。それはまるで、宝石箱をひっくり返したかのような取り留めのない輝きに満ち満ちた光景だった。 
 この一粒一粒の光が、人類の技術と英知、そして生命の輝きなのだと思うと、少女の胸は誇らしさでいっぱいになった。 
 人間によって生み出された電気という力が、この世界を支配している。 
 それは素晴らしい事で、きっとこれから先もずっと、電気の力を崇拝するように、人類は繁栄を続けて行くのだろう。 
「さあチッチ、行くよ」 
 雑居ビルの屋上に据え付けられた給水タンクの上で、小さな影が揺れる。 
 たった一人分の影が少女の声で呟くと、その声に呼応するように、何処からともなくチチチッ……と、ガスコンロの火花にも似た音が響いた。 
 その音を聞き満足そうに頷くと、小さな影は夜の空へとその身を躍らせた。 
 直後、烈しい閃光と轟音が辺りを包み込む。 
 まるで雷が落ちたのではと錯覚してしまう音と光に、町中の人間がそのビルへと目を向けた。 
 閃光の中、爆風を受けて飛び去る少女の姿こそ映らなかったものの、雑居ビルの屋上から、破裂した給水タンクの水がぶちまけられる光景を見逃した者は居なかった。

 

1

 七月も下旬になり、夏の暑さが盛りを迎えると同時に、待ちに待った夏休みがやって参りました。
 つい先日までは定期試験という拷問にも近い苦行に挑んでおりましたが、司様をはじめとする皆々様の激励を賜り、何とか乗り越えることが出来たとほっとしております。
 学校も楽しいといえば楽しいのですが、やはり私にとっては、こうして一日じゅう司様と一緒に居られる事が何よりの幸せであります。幼い頃とかわらず、長期休暇を今か今かと待ち続けていたというのが、正直なところでした。
「このか、お煎餅を取って」
 私の隣の座布団におすわりの姿勢でテレビをご覧になりながら、司様が仰いました。
 私はすぐに卓袱台の真ん中に置かれている菓子置きから、司様がお好きなおかきを取り、掌に載せて差し出します。
「はいどうぞ。お召し上がり下さい」
 そう言うと、司様は私の両手に納まったおかきをパクリと咥えられ、そのまま私の掌の上で咀嚼して飲み込みます。
 これは司様が狐のお姿をとっておられる時の連携技です。司様はお体の構造上、どうしても俯きながら咀嚼しなければなりません。どんなに気をつけても床や畳へごみを零さないようにすることが出来ないので、私の両手をお皿がわりにして、司様にはその上でお菓子を召し上がって頂くようにしているのです。
 ちなみに、上京して来た時の新幹線で、司様が八ツ橋を召し上がったときもこうしていました。

「……はぁ」
 不意に聞こえた溜め息に引き寄せられ、目を向けた先に居たのは、何だか怠そうな表情で頬杖をついた阿傍さんでした。
「あら、どうされました?」
 夏バテと言うには少し早い気ぃもしますし、私達と違って阿傍さんは大学も卒業されているので、試験が終わって気ぃが緩んだと言うことも無いでしょう。
「うん〜……まあ、毎月のイベントってヤツで」
 私の問い掛けに阿傍さんは力無く答え、コテッという擬音が聞こえそうな感じで卓袱台へと突っ伏しました。
 実際には、阿傍さんの側頭部から生える角が当たった「ゴツン」という音でした。
「大変ですねえ」
「……このかちゃんはキツくないタイプ?」
 苦笑しながらの言葉にそんな質問が返って来ました。
「私はそんなでも無い方ですねぇ」
「いいなぁ……」
 私の答えに、阿傍さんは心底羨ましいと言った調子で返すと、顔だけをテレビへと向けられました。

 テレビでは、最近頻発する振り込め詐欺のニュースを終え、次の話題に移った所でした。
「本日未明、歌舞伎町の雑居ビル屋上に設置されていた給水タンクが破裂し、ビル内外へと大量の水が流れ出しました。警察ではタンクの老朽化による可能性が高いと見ながらも、事件事故双方の可能性を視野に入れつつ、調査を進める方針です」
 アナウンサーの解説に続き、テレビには件の雑居ビルにお店を構えている方のインタビュー映像が映し出されました。
 電気系統のショートだけでは無く、店舗が水浸しになってしまい営業が出来ないと、肩を落としてられる姿が印象に残りました。
「タンクが爆発なんて怖いですねぇ。皹でも入っていたのでしょうか?」
「かもしれないな。古くなった程度で破裂するような事もあるまい。亀裂が拡がり、一点に圧力が集中したか、或いは……」
「……或いは?」
 言葉を切り、私の反応を待ってから、司様はふっと笑みを漏らせながら、こう続けられました。
「……爆弾でも投げ込まれたかな?」
「あら嫌だ」
 冗談を言って司様と私は笑い合っていたのですが、ただ一人、阿傍さんだけは神妙な面持ちでポツリと一言。
「……嫌な予感」
 阿傍さんの言葉に、えっ? と振り向いた正にその時、宿舎の黒電話がジリリと鳴り響きました。
「あっ、はーい」
 電話を取ろうと私が腰を浮かせかけると、なぜかそれを静止するかのように、阿傍さんの手が私の肩へと伸びました。
「いいよ。私が出るから」
「えっ? でも……」
 体調が優れない様子の阿傍さんのお身体を案じたものの、言うが早いか、阿傍さんは私の肩を利用して立ち上がり、やはり気怠そうな様子で電話口へと向かわれたのでした。

「なお、この被害による怪我人はありませんでした」

 

 

2

「……はあ」
 受話器を置いた阿傍さんは、肩を落としながら溜め息をついていました。
 なにか悪い知らせかしら? と、司様と顔を見合わせ、阿傍さんへと声をかけようとしていると、私達とは反対の方向から別の声が投げかけられました。
「あれ、閻さん。どうしたんですか溜め息なんてついて」
「ああ、直弥くん……」
 私の居る場所からはその姿を確認することは出来ませんが、声と阿傍さんの反応から、それが朝一番から宮司様のお手伝いに出掛けてらした直弥さんであると分かりました。
「顔色が悪いですよ。具合が悪いんじゃないですか?」
「いや、まあ……毎月のイベントってヤツで」
「イベント? 何ですかそれ?」
 直弥さんは細かなことにもよく気が付いて下さるのですが、時々察しが悪くて困ります。
「閻。何処からの電話だったのだ?」
 すかさず助け舟を出したのは司様でした。
 司様のお声に気付いた直弥さんも襖越しではなく、ちゃんと居間に入って挨拶をし、阿傍さんとともに司様と私が居る卓袱台を囲みました。
「神社本庁からの連絡だったのですけど、今しがたニュースでやっていた貯水タンクの件で、ヴァルプルギスに文句を言って来いと……」
 何やら気落ちした様子で阿傍さんがそう告げると、司様ははてと首を傾げました。
「奴らが貯水タンクを破裂させたと? 何の足しにもならなそうな事を、連中がするとは思えんな」
「いえ……ヴァルプルギスというか、雷一門の娘さんなんですけどね……」
 やれやれと言いたそうな表情を作った阿傍さんの言葉を受け、司様も目を細め、成る程という風に頷かれました。
「ああ……例の爆弾娘か」
「はい。例の爆弾娘です」
 司様の言葉を反復した阿傍さんは、更にもう一度溜め息をつき、やはり肩を落としました。
「あのう……アズマって?」
 不意に直弥さんがそう切り出しました。実は私もアズマ一門ってなんだろう? と思いながら聞いていたのですが、聞くタイミングを掴めずにいたのです。
 直弥さんに感謝の念を抱きつつ、私は直弥さんとともに司様へと目を向けました。
「なんだそんな事も知らんのか。雷一門と言えば、日本を代表する魔法使いの門派ではないか」
 司様は呆れたと言わんばかりのご様子でしたが、その説明で私もだいぶ昔ではありますが、雷一門について教えて頂いた事があったなあと思い出しました。

 雷一門とは、ヨーロッパに起源を持つ魔法使いの連合機関「ヴァルプルギス機関」日本支部を統轄する、日本屈指の魔法使い集団です。
 雷家は元々は陰陽師の家柄にあったらしいのですが、欧州の魔術を取り入れてからみるみる内に頭角を現わし、日本における魔術研究の第一人者としても知られる、正に名門中の名門へと成長を遂げた一族なのです。

「ところでその……爆弾娘言うんは、どのような方なのですか?」
「悪ガキ」
 私の質問に答えて下さったのは阿傍さんでした。それも即答で。
「そ、そうなんですか」
「ホントに、事あるごとに問題起こしてくれてさー。その都度神社庁から文句を言って来いって私が行かされるのよ。そりゃあ私が一番時間に余裕があるのは確かだけどさぁ。毎回毎回同じような事を目上のめっちゃ恐い人に言いに行かなきゃならない私の身にもなって欲しいよホント」
 どうやら雷一門へ派遣されるのは決まって阿傍さんのようです。ご本人も鬱憤が溜まっているらしく、聞いても無いのにグチグチと話してくださいました。
 一見すると元気そうなのですが、話し終えると途端にぐったりとしてしまう辺り、やはりお腹が辛いのでしょう。
 この状態の阿傍さんを送り出すのは心配でならないのですが、私達が代わりに行っても、恐らくお役に立つ事は出来ないでしょう。
 何せ、何を言えば良いのか、さっぱり分からないのです。
 私が居心地の悪い思いをして居ると、突然「そうだ」と、司様が声を上げられました。
「ど、どうなさいましたか?」
 少しびっくりしながら問い返すと、司様は頬の辺りを僅かに緩ませながら、私達に向けてこう仰ったのです。
「良い機会だ。閻の付き添いとして、お前達も雷の所へ行ってこい」

 

 

3

老舗の料理屋風と申し上げれば、なんとなくでもご理解いただけますでしょうか?
 司様の言いつけで阿傍さんに同行した私の目の前には、長い長い板塀に囲まれたお屋敷と、その入り口に当たる古めかしい戸が聳えておりました。
 塀に戸と申しましたら、武家屋敷のような頑強そうな門を想像されるかもしれませんが、先に申しましたように、私達の眼前にあるそれは曇り硝子を嵌め込んだ引き戸になっております。
 今にも美人のおかみさんが「ようおこしやしたなぁ」と言いつつ出てきそうな雰囲気が漂っている、どこか心が落ち着く佇まいをしておりました。
 表札には一文字「雷」と掘りこまれた表札が付けられており、此処が今回の目的地である雷家本邸である事がわかります。
「これがいわゆる雷門ですね」
 私が何の気なしにそう呟くと、髪の毛一本すらも挟む隙がないほどの速度で、直弥さんの返答が帰ってまいりました。
「いや、浅草じゃないから」

 疲れた表情の阿傍さんがインターホンを押し、用向きを伝えると、殆ど間をおかずに……それこそ実は自動ドアだったのではないかと勘繰りたくなるくらいの早さで戸が開かれました。
 そこに居たのは膝に両手を突き、ぜいぜいと肩で息をしている、雷一門の門弟であると言う、若い男性の方でした。
「お、お待たせしました阿傍さん……ハア、ハア……ど、どうぞこちらへ!」
 恐らく全力疾走して此処まで来られたのでしょう。絶え絶えな息で、しかしながら慇懃に私達……というか阿傍さんを屋敷内へと案内してくださいました。
「流石は閻さんだよな……」
「え?」
 何やら阿傍さんへとしきりに話しかけながら先導してくださっている男性と、その言葉を適当に受け流している阿傍さんの2歩後ろをついて歩きながら、不意に直弥さんがそう呟きました。
「何のことですか?」
 私がそう返すと、直弥さんは顎をしゃくって前方の二人へと私の視線を向けさせました。
「あの雷の門弟の人、尋ねて来たのが閻さんだから大急ぎで出てきたんだよ。あのはしゃぎ様を見ろよ」
 確かに、直弥さんの言うように男性は見るからに舞い上がった様子でした。
「まあ仕方ないよな。閻さんって言ったら殆どアイドルみたいなものだしさ」
「はあ……流石は神社庁の広報大使ですね」
 阿傍さんは、実は非常に有名な方だったりします。
 神社庁の運営している公式ブログを管理しているのが阿傍さんであり、神社庁の広報関係のイメージキャラクターを数年前より勤めていると言う経歴をお持ちなのです。
 その容姿と抜群という形容を一歩踏み越えたスタイルの良さからも、神社庁には微塵も興味ないけれど阿傍閻のファンだという方は、全国津々浦々に居られるそうです。
 美人過ぎる神社庁職員だとかなんとか言う理由で、ちょくちょくテレビ取材の申し込みがあったりするほどです。
 尤も、今年は明治神宮に司様が居られるので、阿傍さんが神社庁に来てからの取材申し込み件数の伸び値を更に上回る勢いで、それこそ連日電話が鳴り響いている始末です。
 司様はさておき、阿傍さんの絶大な人気は、こんなところでも威力を発揮したと言う訳です。
「でも、顔パスしちゃって良いのでしょうか?」
「さあ? 怒られるとしてもあの門弟の人だから良いんじゃないか?」
 そんな直弥さんの口ぶりに苦笑しつつ、私達は純日本建築の豪邸へと足を踏み入れたのでした。

「では、こちらでお待ちください」
 案内の男性は名残惜しそうにそう告げると、私達を応接室に残して退室して行かれました。
 お屋敷は日本建築そのものだったのですが、この部屋は毛足の長いカーペットが敷かれ、部屋の中央には大きな硝子のテーブル。そしてそれを囲うように配された大小の高級そうなソファといった、完全に洋風な作りになっていました。
 何と申しますか、テレビドラマに出てくる超一流企業の応接間のような雰囲気です。
「でも、思っていたより結構普通なところなんですね?」
 ヴァルプルギス機関の支部長宅と言う事で、もっと魔術的でアレなお屋敷かと思っていたのですが、ランク云々はさておき、お屋敷自体は割りと真っ当な内外装をしていたため、私は思わずそんな事を口にしていました。
「あー、うん。俺も日本建築だったのはびっくりした」
 直弥さんも頷きながら同意して下さいました。そんな様子を見てか、阿傍さんが苦笑しつつこう注釈をして下さいました。
「ヴァルプルギス機関の日本支部長宅ではあるけど、あくまでもここは雷家の自宅だからね。ヴァルプルギス機関の事務所とかは別にあるのよ」
 つまり、神社庁統理のご自宅と神社本庁がイコールではないと言うのと同じことなのですね。
 私達がなるほどと頷いていると、大きな扉がぎぃと重く響かせながら開かれました。
 私達が一斉に視線を向けたその先には、髪を後ろへ撫でつけた、背の高い壮〜中年あたりの男性の姿がありました。
「お待たせしたかね?」
 低くしゃがれた声でそう言うと、男性は私達の対面へと移動されました。
 そしてその男性の背後には、まるで背中を護るかのようにピッタリと寄り添って歩く、巨大な猫のような獣の姿があったのです。
 男性の姿を認めた阿傍さんがすっと立ち上がったのを見て、私と直弥さんも腰を浮かせかけた時、男性がそれを手で制したため、なんとも不恰好なな中腰で、私達は一旦停止してしまいました。
「阿傍くんには何度もお叱りを受けているが、君達とは初めてだね? 私がヴァルプルギス機関極東支部長の雷総雲だ」
 どかっとソファに腰を下ろし、そう名乗られた男性……雷総雲様の足元に、巨大な猫がすとんと腰をおろすと。ギロリとこちらを一睨み。
 新参者の私達を震え上がらせると、雷総雲様はソファに身を沈め、手を組み、私達へと問いかけました。
「それで……今日はどのような用件かな?」

 

4

 それは挑発的とも取れる言葉でした。

 阿傍さんによれば、私達の訪問に先んじて、神社本庁より先日の歌舞伎町雑居ビル屋上の貯水槽爆発事故についての抗議に伺うと伝えられているとの事でしたので、雷総雲様が私達の用向きを御存知ないという事は考えられないのです。

 尤も、私は先の貯水槽爆発と雷一門にどのような因果関係が成立するのかを存じて居ないのですが……

「先日深夜に歌舞伎町で発生した貯水タンク爆発事故……いえ、事件の犯人が、雷様のご息女だという証言があるのですが? 雷様。以前からご息女が無闇に力を振るわぬよう、監督をお願いしてある筈ですが、一体どう申し開きをしていただけるのでしょうか?」

 私が彼是と想像をめぐらせていると、阿傍さんは驚くほど単刀直入にそう切り出しました。

 事の仔細は勿論存じておりませんが、雷総雲様は私達のような神社庁の末端構成員が対等に話す事が出来るような立場の方ではありません。

 そんなお方に対し、阿傍さんは全く気後れする事なく、いきなり直球勝負に打って出られたのです。

 私と直弥さんが目を白黒させている事など目に映って居ないかのように、雷総雲様と阿傍さんは互いに睨み合い、ピンと張り詰めた空気が部屋を支配しました。

 ですが、その沈黙は長くは続きませんでした。

「娘がアレをやったと?」

 そう仰ったのは、勿論雷総雲様です。

 余裕たっぷりのご様子で、虚勢を張る阿傍さんを嘲笑うかのように、口角を僅かに吊り上げながら、そのしゃがれた声で問い返されたのです。

 私ならば思わず平謝りしてしまったかもしれないその威圧感を前にしても、阿傍さんは一歩も引きません。微かに眉を顰めると、くっと顎を引いて、先程よりも強い語気で言葉を繰り出しました。

「たしかお嬢さんには、えっと幾つだったかしら? ……前科がありましたよね? たくさん」

 阿傍さんのその言葉に、今度は雷総雲様が眉を寄せられました。

「当日の夜、お嬢さんはどちらにおいででしたか?」

「…………」

 ふんと鼻を鳴らし、しかし雷総雲様からの返答はありません。

 たったの数言。しかも私は横で聞いていただけだと言うのに、とてつもない疲労感を全身に感じていました。

 当事者である阿傍さんは私の比ではない……それは阿傍さんの頬ににじんだ細かな汗が雄弁に物語っていました。

「確かに……娘がやっていないという証拠も無いな」

 私が視線を外している時に、しゃがれた声でそんな言葉が紡がれ、私は思わずえっと声を上げそうになってしまいました。

 見た目からの想像ですが、自分の言い分を決して曲げそうも無い印象を持たせる雷総雲様が自ら折れたのです。私は勿論、直弥さんもぽかんと口を半開きにしてしまっていました。

 そして意表をつかれたのは阿傍さんも同じようで、予想外の反応に逆に戸惑ってらっしゃるご様子です。しかし……

「では仕方が無い。娘が学校から帰ったら、あまり外で力を使わぬように言い聞かせておこう。それでよろしいかね?」

 その言葉を聞いて、阿傍さんはぐっと息を詰まらせたのです。

 そう、雷総雲様は決して御自らの非を認めた訳では無かったのです。あくまでもこの件は握り潰す心算で、とにかく私達を追い返そうと言う魂胆なのでしょう。彼我の立場を比べれば、こちらが更に追求する事など不可能に近いと言う事を熟知しておられるのです。

 確かにこれ以上の追求は先方へ対する無礼に当たる部分にまで達する事でしょう……あくまでもそれが言いがかりなら、という但し書きが付きますが……そして雷総雲様程の権威をお持ちの方からお怒りを買ったとなれば、私達程度の存在など、もういろんな意味で抹殺されてしまいかねないと言うものです。

 ですが、だからと言って引き下がってもよい物なのか? 私は阿傍さんへと視線を遣りました。

「分かりました、それではくれぐれもよろしくお願いいたします」

「へっ!?」

 これはどうした事でしょう。なんと阿傍さんはあっさりと引き下がり、ソファから立ち上がってしまったのです。

 混乱する私を尻目に立ち上がった阿傍さんは、毅然とした態度で雷総雲様へ向けて言葉を紡ぎました。

「ですが今回で三回目です。次同じような事があれば、神社庁としては断固とした対応を取らざるを得ないという事。ご留意ください」

 キッパリとそう言い切った阿傍さんは、それでは失礼いたしますと深々と頭を下げ、さっさとドアへと向かってしまったのです。

 取り残されそうになった私と直弥さんは、あわてて立ち上がると雷総雲様へと一礼し、阿傍さんの後を追いました。

「あー、待ちたまえ」

 すると不意に、雷総雲様の声が掛けられ、私は反射的に振り返っていました。

「君が例のあれかね? 空狐天司の……」

「は、はい。ご挨拶が送れて申し訳御座いません。空狐天司様の巫女、伏見このかと申します」

 私が名乗りを上げると、雷様は満足そうに二度三度と頷かれました。

「そうか。いや、引き止めて悪かったね、下がりたまえ」

「はい、失礼致します」

 もう一度深々と頭を下げ、私は阿傍さんの後を追いかけて、速やかに退室しました。

 

5

「総雲様、よろしいのですか?」

 閻以下、神社庁の遣いである三名を案内して来た雷家の門弟が遠慮がちに問いかけた。

 その問いを投げかけられた当人である、ヴァルプルギス機関極東支部長、雷総雲は「何がだ?」と、しれっとした態度で問い返した。

「先ほどの事です。よもや神社庁とことを構えるなんて事は……」

「盗み聞きとは感心せんな」

「も、申し訳ありませんっ!」

 無作法を指摘された門弟の男は、血相を変えて床へ両手を突いて平伏した。しかし雷総雲はそんな弟子には一瞥もくれないまま、まるで面白がっているかのような口振りで独白を始めた。

「神社庁ごときがいくら騒ごうが大した事ではない。我らヴァルプルギスの前では、神社庁の術士どもなぞ赤子も同然だ」

 

 *********************

 

 出口までの廊下は一直線で、ズンズンと大またで進む阿傍さんに遅れないよう、私と直弥さんは小走りでその後を追いました。

 玄関を出て、門のところまで遣ってくるのに一分も掛からなかったでしょう。

「閻さん、あんな事言っちゃって良かったんですか?」

「……やっぱりまずかったよねぇ」

「はぁ!?」

 直弥さんが心配そうにそう問いかけると、阿傍さんはぽーとした表情でとんでもない事を口になさいました。

「いや、なんて言うかさ。ちょうどイライラし易い時期ってあるじゃない?」

「どんな時ですか!」

 そう言えば阿傍さんが体調不良だということを忘れていました。全く役に立てていなかった自分を責める気持ちと、男性だから仕方ないのかもしれませんが、直弥さんのKYっぷりに辟易する気持ちが綯交ぜになっている内に、もう目の前は雷家本邸の正面門でした。

 阿傍さんが曇り硝子の戸に手を掛けようとした、正にその瞬間。ガラガラと音を立てて、門戸が開かれました。

 やはり自動ドアだったのかと私達が覗きこむと、どうした事でしょう。向こう側からきょとんとした顔を覗かせた、小・中学生くらいの女の子の姿があったのです。

 半袖のセーラー服に、紺のスカーフ……は、何故か縦結びにされています。クリクリとした大きな瞳と、ショートカットの何を結んでいるのかよく分からない、大きな紺のリボンが可愛らしい女の子です。

 裏手には道場を備えた一流魔法使いの邸宅……しかも何故か純和風……に、このような少女の姿は似つかわしく無いもの。一体どうしたのかしらと首を傾いでいると、少女は阿傍さんをみるや、こう言い放ったのです。

「あ、神社庁のおっぱい女!」

 言い得て妙と申しますか、正にその通りなのですが、言われた阿傍さんはこめかみ辺りに青筋を立てていそうな笑顔を少女に向ると、視線を合わせるために腰をかがめました。

「あらー鳴天ちゃん。今日は随分と早いお帰りなのねぇ」

 笑顔なのに何故か威圧感のある音声で、阿傍さんがそう話し掛けました。

 ナルミ……たしか雷総雲様のご息女の名前が、一見するとライメイテンとしか読めない漢字でなぜかアズマナルミと読むのだったと聞き及んだ事があります。

と言うことは、この少女がさっき話題にも上がった雷総雲様のご息女と言う事なのでしょう。

「ふふん。今日は終業式だから午前で終わりなんだ!」

 阿傍さんの言葉に、鳴天さんは何故か胸を思い切り逸らせながら、何故か勝ち誇ったように答えました。

 当然と言えば当然なのですが、どれだけ反っても、胸も身長も阿傍さんには遠く及び付かないようです。

「あらそうなのー。ところで鳴天ちゃん。昨日の夜は何処にいたのかしら?」

「昨日の夜ならテレビ見てからパトロールに行ってたよ。何にも無くてつまんなかった!」

 阿傍さんの質問に、鳴天さんはハキハキと、それでいてどこか偉そうに答えていました。先ほどまで対面していたお父上様とはほぼ間逆の展開で、鳴天さんは……こう言うと失礼かもしれませんが、馬鹿正直と形容したくなるほど素直に、それでいてどこか偉そうに事情聴取に応じています。

「歌舞伎町には行った?」

「勿論。あそこだってそのうちあたしのものになるんだからな!」

 ……なんだかよく分からないことを言っていますが、事故現場へは立ち寄ったそうです。

「でもなんで?」

 今更疑問を覚えたようです。

「ビルの貯水タンク……壊さなかった?」

「…………」

 黙りました。

「チッチ!」

 突然鳴天さんが叫ぶと、ジョンベラの影から一つの小さな影が飛び出しました。

 それが何なのか、私達が理解するよりも早く。鳴天さんが右手を頭上に掲げ、ピンと伸ばした指先から衝撃波を伴った光の束がうねり、自身の体を護るかのように、周囲にいる私達へと襲い掛かったのです。

「きゃあぁぁっ!?」

 閃光と破裂音。そして衝撃波に体勢を崩され、私達三人はその場に崩れてしまったのです。

 その隙に鳴天さんは玄関へと駆け込んで行き、あかんべぇをしてぴしゃりと戸を閉めてしまいました。

「くっ、あんの悪ガキめぇ!」

 怒りをあらわに立ち上がろうとした阿傍さんですが、次の瞬間、阿傍さんは再び膝から崩れ落ちてしまいました。

「阿傍さん!」

「閻さん!」

 今の光で怪我でもされてしまったのでしょうか? 私と直弥さんは阿傍さんに駆け寄り、その体を支えました。

「大丈夫ですか、阿傍さん。どこかお怪我でも……?」

「な、波が……」

「えっ?」

 酷く辛そうな声。額には脂汗を浮かべながら、阿傍さんは私の袖を握り締め、一言こう告げられました。

「高波が来た……っ」

「大変。直弥さん、撤退です!」

「え? え?」

 大急ぎで阿傍さんを助け起こそうとする私と、それを見て困惑するだけの直弥さん。

 もう……KYも此処まで来たら呆れてしまいます。

 

6

「ふう、あぶないあぶない。もうちょっとであたしが悪者にされるところだったよ」

 詰問から逃れた雷鳴天は、玄関越しに神社庁一行が退散してゆく様子を確認して、ほっと胸を撫で下ろしていた。

「まったく、あいつら何か起こるとすぐにあたしのせいにするんだから。ビルのタンク一個や二個でいちいちうるさいなぁ」

 結局自身が犯人であると独白しつつ、しかし当の鳴天本人には、欠片も罪悪感が無いようだ。しかもその口ぶりから、貯水タンクを破壊したのは今回が初めてではないらしい事が伺える。

 ぶつくさと文句を言いつつ靴を脱ぎ、家に上がった鳴天は、まず玄関に据え置かれている柱時計の前に立った。

 セーラー服のポケットに手を突っ込み、そこから取り出したのは、中学生の少女にはおよそ似つかわしくない、ねじ式の懐中時計だった。

 懐中時計の針を柱時計のそれと合わせ、ねじを巻く。

 二つの時計がチクタクとシンクロして動く様子を確認すると、鳴天は満足そうに頷き、懐中時計を再びポケットに収めた。

「おかえり鳴天、もう帰ったのか」

「あ、パパ。ただいま」

 声を掛けたのは鳴天の父、雷総雲だ。神社庁の遣いの者たちと面会したときはスーツ姿であったが、今はジャケットを脱ぎ、シャツ一枚になっている。

「ねえ、あいつら何て言ってきたの?」

 鳴天の短い質問に、総雲ははてと首を傾げたが、すぐに神社庁の者たちについて聞かれているのだと気付いた。

 神社庁からの話は、総雲の娘……鳴天の目に余る行動によって被害が続出している件についてだ。

 雷総雲は世界最大の魔法使い管理機構、ヴァルプルギス機関の極東支部長にして、日本最強の魔術師一族である雷一門の長である。その娘である鳴天も、当然のように魔術に関して類稀なる才能を有している。しかし、まだ幼いが故にその力を持て余し、今回のような事故を引き起こしてしまう事など、それこそ日常茶飯事であった。

 だが、そんな事が日常的に行われていては困るのだ。

 ディメンションフォースによる人的被害を取り締まる役目を負う神社庁にとって、それは見過ごせない懸案にほかならず、しかもそれを引き起こしているのが、神社庁と同様の役割を持つ外部組織の関係者だというのだからたまったものではない。

 実際ヴァルプルギス機関内部からも、鳴天の度重なる暴走に対して苦言を呈する者は多いのだが……

「なに、いつも通り嫌味を言いに来ただけだよ。気にしなくて良い」

 犯人の父親がこれなので、今のところ解決の見込みは無い。

 

「総雲さま、鳴天お嬢様の件なのですが」

 昼食をとった後、食休みに安楽椅子でテレビを見ていた総雲に、門弟の男が話しかけた。

「どうした、鳴天に何かあったのか?」

「い、いえっ。神社庁からの勧告で、あまり鳴天お嬢様を自由に振舞わせないようにとのお達しがございまして」

「そんな事はわかっている。だからなんだ?」

 先ほど自分の耳で直接聞いた事を繰り返され、総雲は苛立たしげに問い返した。その様子に門弟の男はすっかり萎縮してしまったが、他のお偉い方から総雲へと通達するようにと念でも押されてきたのだろう。怯えた様子のまま、男は健気にも言葉をつむぎ続けた。

「役員の皆様方も満場一致で、その……鳴天お嬢様の行動を制限していただくと決定が」

「何だと!」

 威圧的でこそあったものの、それまで大人しく話を聞いていた総雲が、勢い良く立ち上がった。

 驚いた男はその場でひっくり返りそうになってしまったが、なんとか堪え、しかし殺気立った様子でにじり寄ってくる総雲を前に、たじたじと後ずさりする他は無かった。

「鳴天の行動を制限? 馬鹿を言え。あの子は今が伸び盛りなのだ。幼くして精霊との契約に成功し、今やあの歳でヴァルプルギスの誰よりも強い魔力を備えている……それだけではないぞ! ようやく成長期を迎えて、あの子はさらに強くなる。そのためには、密に精霊と交信を交わし続ける事が重要なのだ。そんな事もわからぬから、貴様はいつまでたっても三流魔法使いなのだ!」

 まるで落雷のような声で怒鳴り散らされ、今にも泣き出してしまいそうな表情になった男は、しかし立派なもので、総雲に対して勇敢に言葉を返そうとした。

「で、ですが。鳴天お嬢様のお力は外で使うにはあまりに強すぎます」

「ならば貴様らが相手をすれば良かろう」

「そ、そんなっ!?」

 男の必死の反論も、総雲の一言でぴしゃりと片付けられてしまった。

 総雲がいま言ったように、鳴天の魔力は、その年齢から考えても異常なほどに膨れ上がっている。それこそ、一流の魔法使いと比べても見劣りしないどころか、それらをさらに上回ってしまうほどの力だ。

 三流と扱き下ろされた彼に、鳴天の相手など務まろう筈も無かったのだ。

「うるさいなー。大声出してどうしたの?」

 そんなとき、総雲の声を聞きつけて、渦中の人鳴天が顔をのぞかせた。

 思わず口ごもる門弟の男を尻目に、総雲は一転してにこやかな笑顔を作って見せた。

「驚かせてしまったか? すまんすまん。また役員どもが馬鹿な事を言い出したと聞かされてな」

 まるで他人事のように言うと、セーラー服から私服へと着替えた鳴天の姿をみて、総雲は問い返した。

「今日も遊びに行ってくるのかい?」

「うん、今日こそヒバチを見つけてやるんだ!」

 両拳をぎゅっと握り締め、鳴天は元気よく答えた。その表情は、虫取りに出かける小学生男児のようでもあり、実年齢よりも更に幼く見えた。

 しかし総雲はそんな我が子が可愛くて仕方が無いのだろう。うんうんと相好を崩しながら頷き、そして娘を送り出す。

「そうか、じゃあ車に気をつけて行っておいで」

「うん! よーし、いくよチッチ!」

 父に送り出され、鳴天は弾かれた様に屋敷から飛び出していった。

 鳴天が正面の戸を出た辺り、塀の外側で何かが光ると、一瞬遅れて轟音が鳴り響く。

 木々に止まる鳥達が一斉に逃げ出し、近所の犬が吠え……やがて閑静な昼下がりが戻った。

 

7

 新宿駅前を見渡せるビルの屋上。なぜかヒマワリが鉢植えで育てられているその場所に、少女の姿はあった。

 空には夏の太陽が昇り、強い日光がさんさんと降り注ぐが、強い風が吹き抜けるその場所にあっては、別段暑いという程の体感温度ではなかった。

 ……というのは、あくまで一般論。そしてその場所で強風に吹きさらされている少女、雷鳴天は汗を拭いながら、大通りの向こうを眺めていた。

「ふう、今日は暑いなぁ」

 汗を拭いたハンカチをポケットに仕舞い、そんな事を嘯いた。

 参考までに記しておくと、このクソ暑い季節にどういうわけか、鳴天は体をすっぽりと覆う大きなマントを羽織っていた。しかも太陽光を吸収しやすい黒である。暑くない方が不思議というものだ。
「チッチは大丈夫?」

 鳴天がそう問いかけると、チチチッという声で、彼女の肩に停まっていた黄色い小鳥が答えた。

 大きさは雀程度だろうか。遠目からでも目立つ鮮やかな黄色い羽毛に全身を包んだ、世にも珍しい鳥だった。

「うーん、鳥だから大丈夫なのかな? ……まあ大丈夫ならいいか」

 どうやら鳴天とチッチの間では会話が成立しているらしい。

「よし、じゃあ行くよ」

 と声をかけ、鳴天はいつものように身構え……ふと今朝の事を思い出す。

 辺りを見回すと、仔細は不明だが先述のヒマワリをはじめ、結構いろいろなものがある。

 鳴天は少し考え、何か閃いたのだろう。パッと表情を華やがせると、一目散に屋上の端へと向かって全力でダッシュを始めた。

「でぇいっ!」

 そしてそのまま、一切の躊躇いもなく空中へと身を投げ出した。鳴天に先んじて飛び立ったチッチ目掛けて体当たりするような勢いで、マントを羽織った少女が新宿の空を舞った。

 直後、鳴天の身体から凄まじい閃光が放たれる。落雷のそれに匹敵する轟音を撒き散らし、周囲数キロメートル範囲内の人間は思わずその音源を捜した。

 だが、鳴天の姿は新宿駅から見ても、靖国通りから見ても死角になるアルタの裏手であったため、生ける青天の霹靂を直接目撃できた者は少なかった。

 

 鳴天は空を飛んでいた。

 正確には、マントによって嵩増しした身体の表面積に空中で爆発させた強大なエネルギーを受け、それを推進力として空中で加速上昇したのだ。

 短時間であるとはいえ、特別な道具を用いず、自らの魔力のみによって飛行が可能な術士は、少なくとも現在の日本では他に確認されていない。それは鳴天の身体が小さく、まだ成長しきっていないという助けがあってのことではあるが、やはり常軌を逸していると表現したくなる程の、桁外れの力であった。

 バチバチと火花を散らせながらはためくマントは、さながら戦闘機のアフターバーナーのようでもある。

 鳴天が空中で魔力を爆発させてから、歌舞伎町の一角に降り立つまで、掛かった時間はほんの20秒程度であった。

 両手を突っ張り棒にしてマントを広げ、グライダーの要領で緩やかに着地した鳴天は、今度は小規模な爆発を繰り返しながら、ビルからビルへと飛び移って行く。

 いちいちビルの屋上を焦がすのは、まあ愛嬌だ。

「要はビルのものを壊さなきゃ良いんだよね。さて、今日こそはヒバチを見つけるぞ〜」

 いちいち屋上の床面を焼き焦がし、時にはタイルを吹き飛ばしながらやって来た鳴天だが、彼女にとってはその程度では破壊とは呼ばないらしい。

 背後でばバチバチと派手な音を立てながら放電しているが、鳴天自身は比較的ゆったりと。傍目からみれば、ふんわりと形容しても差し支えないような軌道で、例の如く貯水タンクの上へと降り立った。

 何故タンクの上かというと、単純に高いからだ。

 鳴天は手を額に翳しながら周辺を隈なく見渡す。

 路地裏ではどちらがぶつかったと、柄の悪いチンピラ風の男が喧嘩をしている。

 ……関係ないので無視。

 不振な外国人が自動販売機の隙間から辺りをしきりに見回している。

 ……これも良く分からないので無視。

 夜中に見かけたオッサンがまだ通りで爆睡している。

 風邪を引くなよと思いつつ……やっぱり無視。

 怪しいものは何も見当たらない。欠伸が出るほど退屈な、いつも通りの町並みが、鳴天の眼下に広がっていた。

「うー、チッチも何かないか探すの手伝ってよっ!」

 なにを探しているのかは不明のままだが、目的の何かが見つからずに苛々してきたのだろう。鳴天はやがて鳥にまで当たり始めた。

 それを受けたチッチは鳴天の肩からパッと飛び立ち、彼女の頭上をグルグルと旋回し、やがて鳴天の元へと帰ってきた。

「チチチチチッ」

 そういってチッチが指し示した……のかは分からないが、鳴天は迷わず、空中のある一点へと視線を向けた。

「……虫?」

 彼女が視線の先に捉えたのは、全長にしておよそ50センチ程にもなろうかという、巨大な羽虫が空を飛んでいる姿だった。

 それはコクワガタのように太短い大顎を持ち、身体はムカデのように長くうねっている。どこかの腐海に生息していそうな奴である。

 そんな昆虫、日本はおろか、世界中を探しても存在していない。

 ……いや、正確には“三次元には存在しない虫”だった。

「アヤカシノコって奴か……でも何でこんなところに居るんだ?」

 ふらふらと空を漂うように飛行する妖虫に興味を惹かれたのか、鳴天は遠巻きにその虫の追跡を開始した。

 

 

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